「大岡昇平展」に行く

大岡昇平の小説で最初に読んだのは、大学のとき『野火』で、実はあまり感動しなかった。
その後、30代で『俘虜記』を読み、大変に感動した。その文体と現実への目にで。
彼の作品の優れたところは、文体の良さだと思う。
現実を正確に見て、無駄な修飾をせず的確に表現するところにある。
この展示会は、先週みなとみらい線の中の広告で知った。

大岡の父は、和歌山の出身の株の仲買人で、その家は、当初は渋谷の東南の金王八幡付近にあったが、後には反対側の渋谷松濤付近に移動する。大向尋常小学校に入学する。これは、今の東京本店の場所にあった小学校で、タレントの井上順も出た学校だった。ここで、おかしいのは、大岡の級長指名について、辞令が出ていることで、こんなものにまで辞令を出していたとは驚く。
大岡は、府立1中を受けたが落ちて、青山学院中等部の進学する。
青学では、当然キリスト教の影響を受けるが、そこから夏目漱石の小説へと進む。
キリスト教の博愛から、漱石流のエゴイズムと個人主義の肯定にいたるが、これは同時に自我の確立だったともいえるだろう。
そして、小林秀雄、中原中也、富永次郎らとの交友と絶対的な影響。
それから逃れるかのごとき、京都大学への進学と、神戸での就職。
帝国酸素という日仏合弁企業でのサラリーマン生活は、それなりに安定と安逸だったことがよくわかる写真も多数展示されていた。戦争の進行の中で、帝国酸素は海軍に乗っ取られ、大岡は川崎重工に再就職する。
それは、軍に徴兵された場合、川重では手当が出たからで、意外にも家庭の事情を心配する面を見せていた。
徴兵手当は、大手の軍需企業には出たようだが、明確に書いてあったのには初めて見た。

昭和19年の教育招集からフィリピンへ送られ、ミンドロ島での絶望的な戦闘に遭遇する。
暗号手という大岡の才能を生かしたものだったが、マラリアで倒れていたところで米軍の捕虜となる。
21年秋に神戸に帰還し、すぐに『俘虜記』を書始め、東京の小林秀雄に送ると激賞される。
ここで興味深いのは、『野火』と『武蔵野夫人』をほぼ同時に書き始めていることである。
これは、純文学と娯楽小説という、その後大岡の著作の二つの方向が出ていることだ。
それは、彼が最初に大きな影響を受けた夏目漱石が、その二つを併せ持った小説を書いていたことが理想としてあったと思われる。

晩年の『成城だより』や『昭和末』にいたる多彩な著作で、やはり凄いのは『レイテ戦記』だろう。
戦後文学の金字塔と言え、これは東宝系の映画製作会社の青灯社で社長の堀場伸世も、映画化を目指したようだが予算の問題でできなかった。今なら、CGでできるのではないかと思うのだが。
堀場氏は、青灯社以前、やはり東宝系の日本映画新社役員の時、日映の持つニュースフィルムを基礎に、今村昌平監督に映画『にっぽん戦後史・マダムオンボロの生活』を作らせている。これは成功作とは言えなかったが、面白い企画だったと推測される。恐らくこれはニュースフィルム群を使って「レイテ戦記」を作ろうとした企画の前哨戦だったのではないかと私は思っている。

全体としてよくできた展示会だが、こうした展示では当然だが、大岡の裏の面は出ていない。
それは、『花影』のモデルになった坂本睦子とのことである。
睦子は、大岡の他複数の男と性的関係があった銀座の女給で、当時一番の愛人だった大岡の不誠実さからと思われるが、男たちに絶望して自殺してしまう。
だが、この主人公睦子がなぜ自殺するのかは、よくわからないのであるが、それは大岡が、自分の責任を十分に描いていないからである。
大岡が、米財団の給費金で、アメリカから欧州に旅行したのも、この「悲劇」から逃れることも一つの理由だったのだ。
私は、小説と共に、川島雄三監督の映画『花影』は、大好きで、特に川島の作品の中では最も好きな作品の一つである。
大岡は、79歳で亡くなっており、今思うと結構早いが、やはり戦争で体を消耗したからだと思われる。
会議室では、池澤夏樹の講演も行われたが、事前申し込みで満員とのことで、仕方なく帰ることにする。

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