歴史に、もしはないが、私は、実際と違う選択があったらと想像するのは好きである。
それによって、歴史が立体的に考えられるからだ。
ここでは、1920年代の日本にも、幣原喜重郎や吉野作造らの「国際協調外交路線」があり、それは第一次世界大戦後の国際協調へと外交の主流が移りつつあった欧米にも沿うものであった。
「新外交」と呼ばれたそれの主導者は、アメリカのウイルソン大統領で、彼はベルサイユ会議をリードし、国際連盟を作った。
だが、伝統的に国内第一主義の強いアメリカ議会には理解されず、アメリカは国際連盟にも加盟しない。
こうした国際協調路線は、第一次世界大戦が、予想以上に大きく、その被害は甚大で、結果として欧州の貴族社会の秩序を壊し、ロシアでは社会主義革命まで起きたからだ。
だが、第一次世界大戦ではほとんど被害も戦果もなかった日本では戦争の恐ろしさが十分に受け止められず、中国、満州への侵略に容易になってしまう。
その結果、満州事変と満州国の成立は、日本人のナショナリズムを鼓舞したのみならず、「事変景気」として、昭和恐慌から日本を救うことになるのだ。
要は、「戦争は儲かる」というのが国民の意識だったろう。
だが、満州での勝利は、実は日本への抗日を本気で取り組んでいなかった中国国民党政府の態度の結果であり、本当の日中戦争になると、中国軍が本気で反攻してくると泥沼の戦争になってしまう。
今日では、戦前、1920年代以降の民政党と政友会の「議会政治」は、評判が悪いようだが、そうでもないと私も思う。
由井大三郎先生の話の後、「私の見る限り、1941年の開戦まで、反英映画は、『阿片戦争』『進め独立旗』など、反イギリスの映画は多いが、反米映画は少ないのはなぜなのか」質問する。
お答えは、「中国に対しては門戸開放などをアメリカは言っていて、具体的にはアジアにアメリカは大した利権を持っていなかったので、利害が衝突することはなかった。対してイギリスは、中国に沢山の利権を持っていたので、日本と対立するものとなったのだろう、そうした意識を反映しているのでは」とのこと。
本当にそうだと思った。
朝日カルチャーセンター横浜