来週の12月8日になるが、1941年の日本軍の真珠湾攻撃に始まる日米戦争は、非常に不思議な戦争だったと思う。
戦後の東京裁判の時、元大蔵大臣の賀屋興宣被告も、
「共同謀議なんて、ちゃんちゃらおかしい、陸軍は北だ、海軍は南だと言い、右往左往する内に開戦に至ってしまった」と言っている。確かにそうだろう、現在の大蔵大臣は要職だが、当時は戦争は内閣とは関係なく、天皇の下の統帥権に属するもので、大臣も「カヤの外」だったからだ。
結局のところ、昭和天皇は、太平洋戦争に賛成だったか否かが最大の問題となるが、どうやら昭和天皇と木戸幸一内大臣は、「日米交渉は行き詰まっていて、もう仕方ないので賛成」、近衛文麿首相は反対で、最後まで大統領ルーズベルトとの会談に望みを託していたようだ。
この日米交渉というのも、大変に不思議な交渉で、国レベルではなく、民間の宗教団体の日米関係の悪化を危惧する人たちによって始められたものなのだ。
つまり、国レベルでは、 日米双方とも関係悪化をそう危惧していなかったのである。
第一、日本とアメリカは、中国等でも、そう利害、利権が対立しているわけではなかったのだから。
あえて言うなら、中国問題で言うなら、上海などイギリスと日本の利害は対立していたが、アメリカとは具体的に対立があったわけではない。
だから、太平洋戦争については、近衛内閣の側近だった尾崎秀実など、後にゾルゲスパイ団とされて逮捕される「共産党の連中」による「敗戦革命」の目論見によるものだったとの説もあるくらいだ。つまり、米国と戦争させて敗北させ、日本を混乱させて共産化させることが狙いで、それに近衛内閣は乗ってしまったと言う説だ。
そして、この説のすごいところは、これによって昭和天皇は退位し、近衛文麿が天皇の「座」に座ることをもくろんでいたというのだ。それほどに近衛文麿に度胸があったとは思えないが、近衛文麿と、昭和天皇、木戸幸一とは対立していたことは事実のようだ。
対米戦争の切欠は、中国問題で、日本軍の中国からの撤退が、日米交渉でも最大の課題となり、それで交渉決裂となった。
だが、これは今考えれば、それほどの問題だったのかと思う。
さて、中国との戦争はどこかの時点で停戦するとし、その後米国との交渉を進め、日本がアメリカと戦争をしなければどうなっただろうか。
これは、五百旗頭真防衛大学校長も書いていることである。もし、日米戦争がなければ、その後はどうなったのか。
それは、そこでも満州国は存在するので、それは第二次世界大戦以後、アルジェリア問題に苦しむフランスのようになったのではとのことだ。
実は、我が日本の演劇界でも、同様の過去SFの作品があった。
それは、佐藤信作・演出、演劇センター黒テントの『阿部定の犬』だった。
ここでは、昭和11年2月26日の「2・26事件」は成功し、秩父宮が天皇になり、年号を飛鳥として天皇親政の政権ができる。
その下で、阿部定事件が起きるというものだった。
一方、昭和天皇は、日本を逃れて満州国に亡命政権を作ると言うものだった。
もちろん、政治的展開を目的とする劇ではなかったが、このアイディアは非常に面白いと思った。
歴史にもしはないが、いろいろと考えて見る必要はあると思うのだ。