途中からだったが、「2008北京オリンピック」開会式を見る。
『三国志』をはじめ楊貴妃など、世界最古の歴史を持つ国だけに、歴史絵巻はすごい。
実際にグランドに巨大な巻物があり、絵が出てくるような仕掛けが出来ていた。
チャン・イー・モーの演出だけあり、映像的展開はさすが。
と同時に驚くのは、桁外れのスケールの大動員マス・ゲームである。
古代の遣唐使などの使節も、中国でこのようなイベントを見せられたと思うが、きっとその権力と財力の大きさに肝をつぶしたに違いない。
中国のマス・ゲームの規模に比べれば、日本や北朝鮮のは、ただの矮小な真似と言うしかない。
昔、アメリカ人映画評論家ドナルド・リチーは、「日本映画ですごいのは、『ゴジラ』に代表される大群衆シーンで、あれは世界のどこの映画にもない」と言った。
確かに、近年のCGの大群衆はともかくとして、西欧の映画には大群衆シーンは、昔の『イントレランス』などを除けば少ないようだ。
こうした大群衆の動員はアジア的なものなのかも知れない。
北朝鮮の国家的マス・ゲーム、日本のPL学園の人文字など、アジアではこういうマス・ゲームがページェントとして未だに行われる。
西欧では、大人数に対して「同じことをやれ」と言っても多分皆言うことを聞かず、出来ないだろう。
そこは、個人主義と集団主義との差である。
難しいことを言えば、カール・マルクスの「アジア的生産様式」と言うことになる。
中国、インド等のアジアでは、古代の前にアジア的生産様式時代があった。
そこでは、米作等の農業のため、大規模な灌漑施設が必要で、それを計画、指揮、施工可能な能力を持つ巨大王国と大王制が成立したと言うのである。
それは、小規模農耕の欧州やアフリカ等との大きな差異である。
21世紀の我々も、このアジア的の中に生きている、ことを再認識した一夜だった。