盧溝橋事件に始まる日中戦争(当時の呼び名では支那事変)の、昭和12年の秋の上海を中心に、カメラマン三木茂が現地で同時録音を駆使して撮影してきたフィルムの亀井文夫による編集監督作品。
昭和13年2月、東宝文化映画として日劇などで堂々と上映され、記録映画史上初の同時録音で、中国の日本軍兵士(当時の言い方で言えば、我が皇軍兵士)の姿を生々しく伝えたので、大ヒットしたらしい。
確かに、この時代に兵士の生の声を聞けば、現在の衛星中継以上の驚きがあっただろう。
また、上海の街頭の堂々たる皇軍の行進を様々な角度の移動撮影で、しかも同時録音で生々しく撮っている。
今私たちが見ても「血沸き肉踊る」感じがするのだから、当時の日本人はおよそ大感激して見たに違いない。
だが、決して一方的な戦意高揚映画ではなく、戦禍にあえぐ中国人、破壊された町や村を執拗に描いている。
また、共同租界と虹口地区の日本人租界を繋ぐ要衝のガーデン・ブリッジで、威張りくさり、居丈高にすべての通行人を誰何する日本軍の醜い姿も同録で捉えている。
上海郊外・廟行鎮の「肉弾三勇士」の墓、さらにウースン・クリークで戦死した伝説の新劇役者・友田恭助の墓標も出てくる。
カメラマン三木茂の優れた映像を亀井文夫は、巧みに編集している。
また、音楽(飯田信夫)の使い方も上手い。亀井は、記録映画監督だが、「映像派」の監督であると思う。
この映画の成功で、亀井文夫は『北京』、そして『戦う兵隊』を作る。
また、当時は日中戦争から太平洋戦争への拡大の時期で、記録映画(文化映画)やニュース映画は一種のブームで、ニュース映画専門の映画館すらあった。
新橋の新橋ニュース、横浜桜木町の横浜ニュース等のニュース専門映画館は、戦後
もあった。
だが、映画『戦う兵隊』は、厭戦的で「戦う兵隊ではなく、疲れた兵隊だ」とのことで公開禁止になり、亀井文夫は、その後治安維持法違反で逮捕される。
日本の映画監督で治安維持法違反で逮捕されたのは、亀井文夫ただ一人である。
やはり、亀井文夫はただものではない。