パルコ劇場で『ストーン婦人のローマの春』を見る。
テネシー・ウィリアムズ原作の小説を劇化したもので、演出はロバート・アッカーマン、主演は麻美れい。江波杏子、パク・ソヒなどの共演。
実を言えば余り期待はしていなかった。
ボブ・アッカーマンは、『エンジェルス・イン・アメリカ』でとても感心し(第二部はつまらなかったが、第一部はとても素晴らしかった)、麻美も美人なので、見に行くことにした。
原作は、私は見ていないが1962年にヴィヴィアン・リー主演で『ローマの哀愁』として映画化されている。
ヴィヴィアンは、共演のウォーレン・ビィーティーとできてしまうが、映画のごとく彼女は捨てられ、精神疾患がさらにひどくなる。
第一幕では、麻美は、ブロードウェイの大女優から引退し、ローマに来て社交界で男たちと遊興しているが、表面的な演技で、つまらない退廃劇だった。
麻美れいは、ベッド・シーンまでやってくれるが。
「高い金を払って損したな、麻美れいのベッド・シーンが見られただけで満足すべきか」と思う。
一幕目のローマの上流社会は、フェリーニの『甘い生活』のローマ、あるいはジョン・シュレシンジャー監督、ジュリー・クリスティー主演の映画『ダーリング』で描かれたパリのような退廃。
だが、二幕でイタリア人のジゴロ(パク・ソヒ)とグルの伯爵夫人と称するポンビキ女江波杏子に裏切られ、彼らと喧嘩して別れる辺りから、芝居は本物になる。
麻美は、イタリア人の「物乞い精神」と尊厳のなさをなじる。
だが、江波杏子は、「男を殺し、町を破壊したのはアメリカで、我々をこのようにしたアメリカにイタリア人を責める資格はない」と堂々反論する。
今の、麻生首相、さらに小泉元首相に聞かせたい台詞である。
最後、麻美は失意の中で、彼女を追い回していた乞食の少年(鈴木信二)にバルコニーから部屋の鍵を投げる。
まさに、背筋に冷たいものが走るような感動だった。
三島由紀夫の原作で蔵原惟善が監督した傑作『愛の渇き』の最後を思い出した。
浅丘ルリ子が温室で少年の石立鉄男を鍬で撲殺し、土の中から石像を掘り起こしたラスト・シーンのような冷たい感動があった。
つまり、ここで描かれている愛とは、人の尊厳のことであり、それとの絶え間ない葛藤だと言うことだ。
近年にない大収穫だった。
これだから、芝居は面白く、劇場通いはやめられない。
冷静に考えると、中年の女性が若い男との性的関係に狂うと言うのは、随分と通俗的な内容だが、よく考えれば劇作家テネシー・ウィリアムズの作風は極めて通俗的、新派悲劇的な内容なのである。
コメント
貴殿の評論への感想
どうも私のメールが不具合なようなのでやはりこちらで。
「麻実れいを宝塚時代から見てる」と仰られましたが、
宝塚時代から彼女を観てるからといって貴殿が麻実れいという役者を熟知しているとは限りませんよ。
“下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる”という諺が御座いますが、
これでは数撃っても1つも当たっていなければ、
踏み込んだことを申上げさせて頂ければ貴殿には私からみれば貴殿は”只、数多く見た”というだけ。
だからと言って観る目が肥えたとはなりません。
これは錯覚という名の「驕り」が御座いますね、どうも。
それに麻実れいファンの私と致しましては何だか女性に対しての「品性のなさ、無配慮さ」に些か欠けている気が致しますが。
麻実れいはそういった類の役者では毛頭御座いませんので、
悪しからず。
公平無私は目指していませんので
初めから公平無私な批評など目指していません。
言いたいことを書いているだけです。
でもよく読んでいただければわかりますが、ほめているんですよ、この記事は。
ファンの方には何を言っても絶賛以外は無理でしょうが。
ふーん。
誉め方がヘタ。
※やはり……遊びや女性を知らない男性というのは気が利かないというか…