なぜ阪神ファンになったか。

江夏豊(阪神!E

阪神ファンだと言うと、大抵怪訝な顔をされる。東京(今は横浜に住んでいるが)の人間なのに、なぜ阪神ファンなのか、と。
私は、阪神ファンというより、もともは江夏ファンだった。
昭和40年代は、巨人の王・長島の全盛時代だった。
その中で、王・長島相手に孤軍奮闘し、三振を取る同世代の江夏にしびれたのである。
当時、阪神は全く打てないチームだった。バッターはいいのがいなくて、遠井吾郎と藤田平だけだった。後は時々の外国人選手のみ。
投手はすごくて、江夏、村山、バッキー、権藤、若生など、3点取ったらまず勝ちだった。
昭和45年の村山の防御率は、なんと0.89である。2点取れば勝ちだった。もっとも、この年は監督兼任だったので、156回しか投げていない。

44年の江夏は、15勝10敗だが、防御率1.81でセ・リーグのトップであった。投球回数は258回。江夏は、前年の43年に三振401個のシーズン最高を記録している。

しかし、もっとすごいのは、33年の南海(現ソフトバンク)の杉浦忠だろう。
38勝4敗、防御率1.40、投球回数は371回である。最近の投手がエースでも年間150回程度であるのに対し大変な差である。
捕手だった野村は、「杉浦が投げていると打たれる気がしなかった」と言っている。この4敗も確か、最初南海が1,2点をリードしていて追加点をあげず、最後にラッキー・ヒットで逆転される、とういうものだったらしい。
この頃の、杉浦と西鉄(西武)の稲尾、そして国鉄(ヤクルト)の金田がなんと言っても日本プロ野球史上の最高の投手だろう。

稲尾は、32年と33年は、共に投球回数373回、防御率は1.37と1.42で、勝ち負けは35勝6敗と33勝10敗である。
金田も32年は1.63、28勝16敗、33年は1.30で、31勝14敗である。
もっとも、この頃の相手チームのバッターにたいしたのがいなかったのも事実なのだ。
セ・リーグではまともなチームは巨人、阪神、中日くらい。国鉄は金田だけ、広島、大洋は今のノン・プロ程度の選手ばかりだった。
パ・リーグはもっとひどくて、いつも南海と西鉄の争いで、大毎(ロッテ)と東映(日ハム)が時々引っ掻き回す程度。阪急(オリックス)と近鉄(オリックス)はほとんど論外だった。近鉄などは、今の楽天、オリックスよりはるかに下だったと思う。

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コメント

  1. 乙庵 より:

    「江夏」は団塊の世代の星
    「江戸っ子だってねー まあ呑みねースシ食いねー」と『江夏』という名前が出ただけで思わず石松になってしまいそうな私ですが、大阪生まれの貴殿とは同世代の男です。それにしても全盛期のONと対決していた頃の江夏には何度も痺れさせてもらいました。おおきに!