『<戦後>が若かった頃』 海老坂武(岩波書店)

だいぶ前に買って読まずにいたこの本を読んだのは、著者と私が出た都立小山台高校が、高校野球の決勝戦に出たからである。

小山台は、昔から進学校の割には野球が強く、1949年には東京都大会決勝に出たが、当時三田にあった慶応高校に負けて甲子園に行けなかった、とさんざ在校中に教師から言われていた。海老坂氏は小山台から東大に行き野球部で活躍したので、その時のメンバーだったと思い込んでいた。だが、この本を読んで分かったが、小山台高校が決勝戦に行ったのは、彼が入学する前年で、海老坂氏が在学中は小山台はさして良い成績ではなかったようだ。

1浪後、東大文学部に入学されるが、早稲田には落ちたとのことで、そうしたことは昔からよくあったわけだ。

東京6大学戦では、長嶋茂雄と同期になっていて、長嶋より打撃成績のよい時もあったのだそうだ。長嶋については、「たえず動いている男だった」と書いている。「守備の時も、打撃の時も彼は絶えず動いている男だった」と形容しているが、それは正しいと思う。また、「大沢親分」の大沢啓二について、ある試合でショーㇳの海老坂は、投手からの牽制球で2塁にいた大沢にタッチしようとした。

すると大沢は「触るな!」と大声で叫び、海老坂氏はそうは言われてもタッチせざるを得ないのでタッチすると大沢は暴言を吐き、審判に注意されたという。横浜で中学時代からヤクザのような態度だったという大沢らしいエピソードだが、彼は東大戦でレフトゴロをやったことがあるとも書かれている。最近はあまりないが強肩のライトに、投手などが偶然にヒットを打った場合、強肩のライトで1塁で刺されライト・ゴロというのがあったが、確かにレフト・ゴロというのは珍しい。それくらい大沢は強肩だったということで、彼は高校時代は投手だったはずだ。

海老坂氏が東大で過ごした学生時代は、政治的には日本共産党が武装路線から平和路線に転換した時にあたり、学内では歌声やフォークダンスが行われていたらしい。

彼は駒場から本郷に行くとき、ある学生から本郷で何をするのとの質問を受け、

「仏文でサルトルをやる」と言って驚かれるが、質問の相手は大江健三郎だった。海老坂は、大江のことを朴訥だが愛嬌のある人気者の少年だったとしている。

仏文科から大学院生になった時が1960年安保の時で、院生だった彼も国会前のデモで右翼の暴行を受ける。

この頃の、彼と多くの青年にとっての最大のアイドルは、大島渚であったことは非常に興味深い。彼は、1963年の池袋人生座における『日本の夜と霧』の再上映のみならず、1961年6月に厚生年金会館で行われた劇団新演の公演も見ているが、これは当時の劇団の規模からみれば12日間という大変なヒットだった。大島渚の映画『日本の夜と霧』の公開と公開4日での打ち切り、松竹の貸出禁止措置はいかに日本のインテリに大きな影響を与えたかを示すものだろう。

また、1963年に東京で行われたフランス映画祭の通訳をするが、この時の仲間には山田宏一さんがいたとのことで、この時彼はフランソワ・トリフォーに気に入られ、それが渡仏、そしてヌーベルバーク派の一員となるとは偶然は面白い。さらに、後に広島市長になる秋葉忠利氏の颯爽とした姿。もちろん、原水爆禁止世界大会での中ソの対立や、総評議長の太田薫らの通訳をした時の裏話も非常に面白い。

そして、最後に一つだけ問題点を指摘しておく。今もシングルの海老坂氏が最初にセックスしたのが北海道江刺に行ったときで、夜見知らぬ女性と公園で出会ってとのことと書かれている。私の考えでは、この女性はおそらく商売女だと思う。どうでも良いことだが。

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