鳩山由紀夫首相の所信表明演説が行われ、概ね好評だったようだ。
そして、夕方のTBSのニュースでは、鳩山首相は、この日、演出家平田オリザに会い、アドバイスを貰ったそうだ。
平田オリザ、本当ですか。
平田が、何をやろうと勝手だが、彼の芝居がいかにつまらないか、やはり書いておく必要がある。
私の周辺で、彼や彼に影響された最近の連中の芝居で、面白いと言った人間を見たことがない。
昔、鴻上尚史、如月小春らの新人類演劇が盛んだった頃、齊藤晴彦はタモリがやっていたテレビ番組『今夜は最高』で言った。
「あのパフォーマンスって言うの、大嫌い!わざとつまらなくしているんだから」
そのとおりで、一体、平田オリザのような日常的芝居のどこが面白いのだろうか。
勿論、芝居や演技にも様々な方法があり、私は新派や小津安二郎の映画のような日常的で、自然な演技も嫌いではない。
だが、リアリズムは、表現の一番最後に現れるものであり、最も難しいものなのだ。
縄文時代など古代の絵画を見れば容易に分かるが、その表現は、極めて誇張された象徴的、抽象的なものであり、非リアリズムである。
だから、自然な演技とは、上手い役者が演じて初めて成立するものなのだ。
小津安二郎映画の役者が、杉村春子、東野英二郎、笠智衆、中村伸郎ら、演技の上手い役者しか使わないことで、よく分かるだろう。
ともかく、平田オリザの芝居など、絶対に面白くないのだ。
嘘だと思う方は、是非一度見られると良い。
必ず「金返せ!」と思うに違いない。
コメント
Unknown
小津安二郎の映画が日常的で、自然な演技ではないことは、やはりコメントしておく必要があります。
当時の他の映画に比べれば、自然な演技に見えるかもしれませんし、現代から見ればまだまだ不自然かもしれませんが、そもそも小津は、台詞を言う「間」をストップウォッチを用いて、秒刻みで指導したと言われています。つまり、徹底した「間」によって、(意図的に)日常的に見せているのであって、それはリアリズムではなく、やはり形式主義なのだと思います。
日常的演技とは
日常的に演じると言うことです。
小津安二郎の戦後の映画は、基本的に「嘘」「作り事」の世界です。『東京暮色』は、例外ですが。
小津の台詞術は、如月小春が書いた中村伸郎の伝記『俳優の領分』によれば、「さりげなく、ただし思いを込めて」という指示だったそうです。
日常的演技と台詞の典型は、新派の花柳章太郎、映画では殿山泰司です。
彼らは、まるで台詞を憶えていないように、また嫌々と台詞を言い、それをリアリティにしています。
こういう演技術は、多分日本独自のもので、フランスのトリフォーが中平康の『狂った果実』を見て驚いたのも、松竹大船系の中平演出の自然な演技だったと思います。
平田オリザを擁護するわけではないのですが
お返事ありがとうがざいます。
演技や台詞のリアリズムについて、という話ならば納得できます。もしかしたら私は、リアリズム的な表現の好例として、小津を挙げている、と誤読してしまったかもしれません。
しかし、ではなぜリアリズムが表現の一番最後に現れるものなのか、については疑問が残ります。縄文の絵画を例に挙げているので、歴史的な流れの最後に行き着くのがリアリズムであるかのように、私は読んでしまいました。
リアリズムは最も難しいものであり、だから上手い役者が演じて初めて成立する、という話だと思いますが、そこに縄文文化の例を挟まれると、縄文文化あるいは非リアリズムは簡単なもので、下手な役者でも可能だと言うように、読めてしまいます。
さすらい日乗 さんの揚げ足をとろうとしているみたいな文章になってしまって、すみません。たぶん「なぜ小津の日常的演技は良くて、平田の日常的芝居は面白くないのか」について、ほとんど言及されてないから、私はどうも引っかかりを覚えてしまうのかもしれません。
しつこくて申し訳ありませんが、良ければまた、お返事を頂けると嬉しいです。
ちなみに私も、平田の演劇は面白くないと思っています。ただ、面白さとは違う「何か」はあるような気はするのですが、それが何であるかは、未だに解っていないのです。
気持ち悪さのあるなしでは
平田オリザ以下、下手な連中がやる日常性芝居には、気持ちが悪いことがあります。
しかし、小津安二郎や花柳章太郎には、そうした気持ち悪さはなく、むしろ気分が良いものです。
そこが、芸の差と言うべきでしょうね。