村上春樹の小説の映画化としては、私が見た範囲では一番良いと思う。
大森一樹がATGで作った『風の歌を聴け』などは、形だけの中身の全くない映画だった。
これは、イギリスの演出家デビット・ルボーが、日本で日本人役者を演出して数々の優れた劇を作り出したのとよく似ている。
日本人俳優によれば、ルボーは、日本語の台詞のニュアンス、抑揚、アクセント等を正確に聞き分け、的確な指示を出すので、大変驚いたそうだ。この映画の監督トラン・アン・ユンの台詞への繊細なセンスは特筆すべきものである。これだけ自然な台詞のやり取りをしているのは、日本映画ではなかなかない。
また、リー・ビンビンのカメラも極めて明るく自然である。画面のサイズが最近には珍しく、ビスタではなく、シネスコなのには驚いたが、その性で明るいのだろうか。
一昨日見た『最後の忠臣蔵』が、谷崎潤一郎の『陰影礼賛』のような暗さの中の深みの映像なら、これは明るさと軽さの自然な画面である。
そして、セット、衣装、小道具等の再現、考証が大変正確なのはすごいことである。
中に、学生運動監修というのがあり、元早大反戦連合の高橋公で、当時の学生運動の連中のビラ、立て看板、ヘルメット、デモの仕方、演説法等も正しく表現されている。
昔、山本薩夫監督の映画『戦争と人間』のスタッフに、軍事指導と言うのがあり、日活のアクション映画の悪役木島一郎だったが、学生運動も監修されないと再現できない時代になったのか。しかし、この徹底性は良い。主人公が、上流の女の子ハツミと乗るタクシーの値段が100円と言うは泣かせる。
主人公の松山ケンイチがいる学生寮、直子のアパート、みどりの家の二階の家具調度等も当時の物をきちんと揃えている。
俗に、今は江戸時代や明治よりも、1960、70年代の映画美術の方が難しいと言われている。
なぜなら、江戸や明治は、普通の家では家具調度は大変少なく間違っても誰も分からない。だが、戦後になると、モノが増えていて、きちんとそれを揃えるのは大変で、しかも記憶している者がまだ現存しているからだ。よく再現していると思う。松山がアルバイトをしているレコード屋に並んでいるLPジャケットも当時のものだろう。
話は、原作から主人公ワタナベ君と直子の物語だけにしているが、これも映画の統一性からは成功。
ただ、原作が持っていた意味の半分は失われていると私は思う。
以上が映画の批評で、以下は村上春樹の原作についての疑問である。
独断的に書くので、村上春樹ファンは読まないほうが良いと思う。
最後に、些細なことだが、一つおかしな台詞を指摘する。
途中で、緑は「ポルノ映画に連れて行ってくれる」とぼくに聞く。
本が出版された1987年には、ポルノ映画という言葉は普通に使われていた。
だが、物語の設定の1968年では、ポルノ映画というのは使用されていない。日活ロマンポルノが始まるのは、1971年末である。
あえて言うなら、ピンク映画で、輸入物のピンク映画も、洋ピンと言われていた。
だから、あのせりふはおかしいのである。
横浜ブルグ13
先日、年末の掃除をしていたら、昔のメモが出てきた。そこには次のように書いていた。
「村上も年とったこと 表現がゆるんで その分気取りがなくなった
減ったいや味
セックスへのこだわりの強さ
本人の存在感のなさ
最初のシーンの井戸の比喩 すべての消えていった者、去っていった者たち
セックスは、人間関係、それは政治であろうか、劇であろうか、そこでの人と出会いの一般性に転化できるだろう」
1988年8月15日の日付けなので、出てから約1年後に読んだことになる。
政治云々以外は、大体当っていると思う。
今度の映画でも主人公の存在感はきわめて薄い。
最後、直子が死に、そこで主人公の号泣に同感できるだろうか。多分、無理だろう。
なぜなら、主人公の心が一貫して分からないからだ。
そもそも、この小説では主人公のぼくにはドラマが存在しない。
彼は何もせず、すべて周囲の者が動き回り、主人公に働きかけるが、勝手に傷つき、最後はみな死んでゆく。
私は、以前この小説も村上の他の作品も、常に自分勝手な主人公であり、周りの人間、女性が勝手に動いて死んでゆく不愉快な小説だと思っていた。
だが、この映画化を見て、少し考えを変えた。
一口にして言えば、村上も、きわめて上品に、間接的に語られた「カタログ小説だ」ということである。
かつて、田中康夫の『なんとなくクリスタル』が出たとき、彼の小説は、「カタログ小説だ」と言われた。
村上も、極めて上手い語り口、巧妙な構造、様々な技法を凝らしているが、その本質はカタログ小説の気がする。
ここでは何のカタログだろうか。
セックス、特に女性のセックスのコンプレックス、特殊体験等のカタログである。
幼ななじみのキズキとはセックスできなかったのに、20歳の誕生日では主人公のぼくとは、最初から濡れてしまってセックスできる直子が典型だが、他の女性もみな性に悩み、傷つき最後は死んでしまう。
主人公にドラマがないのは当然で、彼はカタログの紹介者、司会に過ぎないからである。
今回の映画では、ピアノ教師レイコの物語がカットされているのが大変残念だが、これなど高級ポルノであり、私は一番興奮して読んだ。
これは、私の想像に過ぎないが、村上は、古今東西のポルノ小説、実話等から多くの題材を得てストーリーを組み立てたと思う。
そこには、大変精密な調査、研究がある。
思うに村上が、私生活を全く公開しないのも、そこにある。普段の彼は、古今東西の題材の調査に明け暮れているはずだ。
そんな姿を見たら、きっと体験と想像力で書いていると信じている多くのファンはがっかりするだろう。
だが、そうした調査や研究なくして、あれだけの小説はできないはずだ。
その後に、彼が書いた地下鉄サリン事件のノン・フィクションでの克明な調査を見ればよく理解できるだろう。
三島由紀夫も膨大な調査の上に小説を書いたことは有名であるが、多分村上もそうなのではないだろうか。
ただ、この小説が女性にうけた意味は大きい。時代の変化である。
これが女性に受けた原因は、「ソフトポルノ」で、しかもセックスに傷つく女性を表現しているからである。
1960年代後半にあれだけセックスに積極的な女性がいたはずはないが、多くの女性も心の中では、様々な欲望と悩みを持っているだろう。
そうした彼女たちが、この本を読んだとき、「ああみなも同じように悩んでいるのだ」と慰められたのが、この小説の効用である。
今流行の嫌な言葉で言えば、「癒し効果」である。だからこそ、大ベストセラーになったのである。
さて、少々村上春樹の批判をしたので、最後に彼の擁護をする。
それは直子のような女性が本当に存在することである。
私の小山台高校のクラブの1年後輩にMという男がいた。
真面目な連中ばかりの小山台生の中では極めて特異で、石原慎太郎を崇拝するマッチョで、高校入学の時には、すでに年上のOLと付き合っていた。
そのMが、同じ高校の1年下の女の子とできてしまい、その娘の家は複雑な家庭だったらしく、彼女はすぐに家出してMと同棲し高校を中退したので、校内では大変なスキャンダルになった。今から40年以上前のことである。
だが、今から約10年前に、Mに会い、当時のことを聞くと事実は全く違っていた。
同棲したのは本当だが、実は一度もセックスはできなかったのだそうだ。
直子のように、彼がどうやってもできなかったという。
それやこれやで二人が別れて数年後、深夜いきなりその娘から、Mに電話が掛かってきた。
「今夜、男と寝て、初めてやっとできた!とてもうれしい!」と言うものだった。
本当の話である。
原因は、多分精神的、心理的なものなのだろう。
最後に、村上春樹の小説の意味について言うと、このセックス障害というものは、男女、そして人間の間のコミュニュケーションの困難さ、当時の言葉で言えば「人間疎外」と言うことを象徴的に描いていると思う。
そこが、この小説の価値であり、意味である。
コメント
映画同好会(名前検討中 小説同好会(名前検討中
村上龍さんの ラッフルズ ホテルを 映画館で観ました。美和子さん 全盛期で かわいいかったなぁ。しかし この映画のラストシーンは 文章体のが 好きかなぁ。藤谷美和子さんは 綺麗で かわいいです。
田中康夫 プログで 検索中です
なんとなくクリスタル 流行りましたね
まだ 私は 読んでいません。
田中康夫さんの 講演会を ある学園祭で 聴いたことあります。ちょうど 長野の県知事になるぐらいの時期かなぁ?よく思いだせない。超満員でした。(その教室は 後ろの方だと 声しか 聞けない状態 廊下に あふれるぐらいの人)小説家研究会(名前検討中
村上龍は藤谷美和子と最初に会った時に
以前、テレビで彼の『ラッフルズ・ホテル』を映画化するとき、最初に藤谷美和子に会ったときのエピソードを話していました。
その時、藤谷は
「村上さんのご本大好きです。特にあの赤と緑の装丁が素敵で・・・」と言い、村上は愕然としたそうです。それは、村上春樹の『ノルウェーの森』のことだったからです。
会合が終わり、プロデューサーの奥山ジュニアが、村上龍に謝ったとき、村上は
「俺はああいうの全然気にしないから平気」と言ってくれたそうです。村上龍って結構良い人なんですね。