金曜日、朝日新聞の朝刊に、早稲田大学劇団演劇研究会は去年90周年を迎えていたことが特集されていた。
森繁久弥が出るなど、戦前からあったことは聞いていたが、1920年に創立されたことは初めて知った。
そして、現在の大隈講堂裏のアトリエが、1970年代以降の小劇場の発祥の地となったことも書かれていた。
だが、なぜここに部室とアトリエができたかは書かれていなかったので、当時いた者の一人として経緯を書いておく。
現在のものは、その後再整備されたようだが、1967年にできたときのことである。
私が、1966年早稲田に入学したとき、学生劇団の部室と稽古場は、正門から突き当たりの21号館の裏にあった。
そこには、劇団の他、中南米音楽研究会、部落問題研究会、探検部等の普通のクラブの部室もあった。
さらに、その稽古場の裏を抜けてると普通の民家が1軒あり、そこが映画研究会の部室だった。
だが、この一帯のクラブの部室のことを通称「演劇長屋」と呼んでいたように、そこで一番大きな顔をしていたのは劇団だった。
当時は3劇団があった。自由舞台、演劇研究会、そしてこだま、である。その前には、素描座、白鳥座というのもあったらしいが、当時はもうなかった。この他に、教育学部所属の劇団として仲間があり、そこには東由多加がいて、寺山修司の戯曲を上演したことから彼と関係ができ、それは天井桟敷につながることになる。
私が入った1966年秋には劇団劇研は12月末に、アメリカの黒人作家ジェームス・ボールドウィンの『白人へのブルース』を上演する予定で、稽古に入るときだった。私も大道具要員の傍ら、黒人青年の一人として舞台に立っことになり、発声や身体訓練から芝居の稽古もやっていた。
そして、多分11月下旬の日曜日の朝、制作の女性から家に電話が掛かってきた。
「部室が火事で焼けたから、すぐ来い」と言うのだ。
行くと、21号館付近から警戒線が引かれていて中には入れず、部室と稽古場が焼け落ちていた。
ある先輩は、部室が焼けたと聞くと、
「右翼の仕業か!」と叫んだそうだ。
だが、原因は完全な失火、それも劇研の二人の部員の火の不始末だった。
私の1年上の2年生で、山梨の高校の同級生で、酒の大好きな二人だった。
その夜もどこかで飲み、夜遅くなり、電車がなくなって部室に泊まった。
その汚い部室には、大きな棚があり、そこでたまに昼寝をしている者もいたが、中には泊まって寝ている連中もいたのだ。
そして、冬は部屋の真ん中に石炭ストーブが置いてあった。
当夜、酔って部室に戻り、ストーブに火を点け、寝込んだ二人が目を覚ますとコート火がついていたと言う。
慌てて火を叩くが精一杯で、それに気を取られている内に天井に燃え移ってしまったそうだ。
多分、間違いないだろう。
その日から大変だった。
だが、急を知って駆けつけたクラブの先輩から多額のカンパがあり、全部焼けた大道具も、先輩が手馴れた技で作ってくれ、衣装その他も間に合い、無事公演は空前の盛り上がりの大成功で終わった。怪我の功名と言うべきだろうか。
私などは、そのときの興奮で、芝居に熱中することになったほどである。
そして、すぐに大学は焼けた部室と稽古場の代わりを大隈講堂裏に立ててくれた。
実に寛大なものだなと感謝するようになったのは、卒業してからである。
中には、「大学側は演劇長屋が焼けて感謝している」という意見もあった。
当時、学生会館問題があり、正門脇に堤義明が寄付して建てた第二学生会館は誰も入館しない状態が続いていた。
誰も使わないまま、そこは全共闘時代に占拠され、その封鎖解除の際の機動隊との攻防戦で完全に廃墟になってしまったように、クラブの部室は大問題になりかねない「火種」の一つだったからだ。火事で火種が消えたというのは皮肉な話だが。
大学は、1967年春には大隈講堂裏に部室と稽古場を立ててくれたのである。
さらに1969年には、その奥にアトリエまで作ってくれた。
だが、そこでは本公演はすぐには行われず、新人勉強会等が行われていた。
まだ、本来公演は大隈講堂のような大きなところでやるべきものという意識があったからである。
最初に、このアトリエで本公演が行われたのは、1970年11月25日、私の同期の星野明彦の演出で、三好十郎作の『廃墟』が行われたときである。
その日の午後、三島由紀夫は市ヶ谷の自衛隊で自刃した。