竹下景子の処女を奪った男・斉藤真さんの劇団俳小公演『糞尿譚』

かつて俳優小劇場という劇団があった。
小沢昭一のほか、小山田宗徳、楠木侑子、露口茂らがいて、民芸、俳優座、文学座の3大劇団に次ぐ人気劇団だった。
演目もギリシャ悲劇『オイデイプス』、後に今村昌平が映画『神々の深き欲望』とした『パラジ』、サルトル作の『アルトナの幽閉者』、さらに渋谷の喫茶店での公演や新劇寄席など、斬新な企画で、従来の新劇界を越える可能性を感じさせていた。
加藤健一と風間杜夫が、共に俳優小劇場養成所の出身であることを見ても、その人気の高さが分かるだろう。
だが、俳優小劇場は、リーダーだった早野寿郎が1983年に56歳と若くして亡くなったことから急劇に力を落とす。
その前から、小沢ら有名スターは去っていて、1976年に若手主体の劇団として、再出発していたのだが。
そして、現在は斉藤真さんが劇団の代表である。
斉藤真さんは、私が早稲田の劇団演劇研究会に入ったとき、4年生で、公演のみ役者として参加されていた。
二枚目で、声もよく将来性を十分期待された役者に思えた。

私が、大学を出て斉藤真さんに再会したのは、スクリーンの上だった。
黒木和雄のATG映画『祭りの準備』で、共産党の文化オルグとして高知の田舎に来て、主人公江藤潤の恋人竹下景子の処女を奪ってしまう役だった。
川崎の駅ビルにあった映画館で、これを見たとき、思わず「斉藤さん!」と叫びたくなった。
黒木和雄の映画にしては、『飛べない沈黙』に比べてあまりにも分かりやすいので、「これって本当に黒木の作品なの」って思ったくらいだが、黒木和雄の傑作である。斉藤さんの役が、共産党の文化オルグとは、あまりも適役で驚いた。

さて、今回の劇団俳小の公演は、『糞尿譚』である。
舞台には、肥桶を積んだ車が置かれていた。
これを米占領軍は、「ハニーバケット」と呼び、1952年には、リー・ラッシュという米軍人の作詞・作曲、歌で『ハニーバケット・スイング』というレコードまで作られている。
米軍は、寄生虫のない生野菜を食べるため、古代から人糞を野菜に掛ける日本の農業を根本的に変えさせたのである。それまで日本では、人糞は貴重な肥料だった。

火野葦平の原作で、橋本忍脚本、監督野村芳太郎、伴淳三郎、森繁久弥の主演で1957年に映画化され、かなり高い評価を得た映画になっている。私は、15年くらい前に川崎国際劇場で見て、細部は憶えていないが、糞尿を題材にした、一種のブラック・ユーモア映画だったと記憶している。
今回の上演について、こうした原作ものをやるのは大変良いことだと高く評価できる。
平田オリザ以来の素人芝居、インチキ劇に比べれば100倍くらい意義がある。

だが、脚本、演出には大いに問題があった。
一番の問題は、時代設定を明確にしていないことで、原作は昭和11年だが、1幕、2幕とも、時間経過がよく分からない。
さらに、糞尿処理をめぐる当時の社会的情勢を明確に説明していないことである。
ご承知のように、江戸時代、人間の糞尿は、農家が都市の住民から金を出して買うものだった。
だが、労働賃金の上昇等から大正時代以降は、住民の方が金を出して業者に汲み取ってもらうものになっていた。
この劇の主要な筋の一つに、市役所のし尿処理予算をめぐる攻防がある。だが、そうした行政が業者に与える事業費と共に、し尿処理業者は、個々の住民からも手数料を徴収していたはずで、そうした現実の仕組みが一切描かれていないのは、非常におかしい。私が小さい頃は、百円単位の券を買い、汲み取りの度に、手数料として払っていたと思う。
こんなことも、今の40代以下の人では全く理解できないに違いなく、そこはブレヒト的にでも社会科の授業のように、役者が池上彰風に教えれば面白かったと思う。
また、主人公小森彦太郎役の勝山了介は、終始卑屈で、哀れで馬鹿な男として演じていた。映画では伴淳三郎がやったが、卑屈にのように見えて、実は大変したたかに生きる男で、そこは大いに違う。伴淳と比較しては可哀想だが、勝山は役者として、極めて貴重な良い味を持っているだけに残念だった。

そして最後、し尿処理業は市行政に買い上げられることになる。
そこで、小森の取り分は、彼の親分の政治家赤瀬の河原崎次郎、さらに彼の嫁婿で満州帰りのやり手阿部の大川原直太にほとんど横取りされようとするとき、小森はさすがに反逆精神を見せるが、そこはあまり強調されていない。
映画では、伴淳三郎が、やりたい放題にし尿をぶちまけたと思う。
それがないので、劇にカタルシスがなかった。

さらに、もう一つ、小森と敵対し、彼のし尿投棄に敵対する住民に「ドノゴオ・トンカ」の連中がいる。
この人たちは、「被差別部落」住民を示唆していると思うが、そこも深められない。
こうした現実、歴史、事実をきちんと描かずに劇をやっても、ドラマは成立しないと思う。
新劇リアリズムが俳小の目標なのだから、そこに徹底すべきだと私は思う。
斉藤さん、色々と勝手なことを申し上げましたが、リアリズムは今もその意味はあると思っています。
新劇はもう古いという人はいるが、私はリアリズムは古くないと思っている人間です。
今後も是非頑張ってください。
東京芸術劇場小ホール

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

コメント

  1. nonoyamasadao より:

    ほんの寝巻きで
    いかにも、Y系、民青って感じ、気持ち悪いくらい、よく出てました。

  2. とても良い人です
    斉藤真さんは、とても良い人です。
    ただ、恐らく1970年代までは代々木を支持していたと思われ、その意味では大変適役でした。
    もっとも、竹中労も、死ぬまで代々木の隠れ党員だったそうで、1970年代に革新自由連合というのがあり、彼も一員でしたが、そこでの情報は彼を通じて代々木に総て漏れていたそうです。
    今よりも代々木は、はるかに信頼されていたのです。

  3. 案山子 より:

    涙目
    懐かしい!
    我が 青春の一ページに出会えるなんて!
    みんな どうしているのかな!