『サロメ』

近年稀に見る、役者が自由気ままにやっている芝居だった。
勿論、それでできが良ければよいが、まあひどいの一語につきる。

多分、演出の宮本亜門は、サロメ役の多部未華子をなんとか格好をつけるので精一杯だったのだろう。
義父ヘロデ王の奥田瑛二は、自分勝手にただ怒鳴りまくり、大げさな身振りの古臭い芝居を見せるだけ。
妻ヘロディアの麻美れいは、いつものとおり台詞を自分は心地よく歌うが、見ている方は少しも気分はよくない。

このワイルドの戯曲は、言って見れば歌舞伎みたいなもので、極めて非合理的なのである。
だから、本来この作品は、歌舞伎、新派的に演じるしかないはずで、その意味でも今回の宮本亜門演出は、テレビ的演出とでも言うべきで、実におかしなものだった。
宮本はいつも演劇の素人に脚本を書かせるが、ここでも平野啓一郎だった。
多少は文学的な修辞のある台詞を、多部未華子はほとんど喋れず、独白的な台詞になるとほとんど聞こえなくなった。
これも勿論、宮本の責任である。

このサロメの見所の一つに、サロメがヘロデから所望されて、半裸でダンスを踊るシーンがある。
だが、おそらく所属事務所の方針なのだろう多部は、脱がないので、興味は半減してしまう。
昔、ウィーンの国立歌劇場で、リヒアルト・シュトラウスのオペラ『サロメ』を見たことがある。
このとき、そのダンスのシーンになると、プリマ・ドンナは、ダンサーに代わって半裸で踊った。
概ねオペラ歌手は太っているので、裸で踊るのは無理で、見られたものではないだろう。
このシーンだけ吹き替えヌード・ダンサーを使うのは、初演の頃から行われていたそうなのだから、ここでもその手は少しもおかしなものではなかったのである。
だが、そうした才覚のないのが、宮本亜門の演出である。
その結果、少しもセクシーでも挑発的でもない無意味な多部未華子のつまらない踊りになってしまった。

残るは、サロメの持つ、処女の残酷さだが、多部はそうした資質を持っていないので、なにもない芝居になってしまったのである。
音楽も凡庸で、ナンシー・アジュラムなど現代のアラブのポピュラー音楽を参照せよ、と言いたくなるできだった。
ただ一人良かったのは、預言者ヨナカーンのソンハで、その声は大変魅力的だった。
新国立劇場

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

コメント

  1. ウィーダ より:

    なあ、おっさんよ、
    あんたは麻実れいのせりふ回しが嫌いとかってほざいてるけどあの台詞回しが彼女の声色と相まって耳に心地よく感じるって人も多数いるんだけどね。

  2. Unknown より:

    Unknown
    なあ、おっさんよ、

    あんたは一つの見方しか出来ない観劇者
    いろんな読み取り方があるんだよ!
    耳も遠いんじゃないの!

    何も見る価値ないね

  3. ウィーダ より:

    なぁ「元」税金泥棒さんよ、

    ようは麻実れいが好きじゃないんだろう、早ぇ~話が。
    「宝塚、美人=大根」つう色眼鏡丸出しじゃん。
    どっちにしろ麻実れいアンチな立場ならもう麻実れいの事に関しては筆を執るなよ。
    あたしあんたみたいな団塊の世代特有のヘンな見方するんなら、まだよっほどこの見方が良いよ。
    よくいるんよね~、あのさ、物事を穿ったり、ひねくれて捉える事によって「自分は人より見る目がある、人よりも優れた観察眼がある」って無駄なプライド掲げて勘違いしてる輩が多いんだよなー。笑

    ※あ、ついでに年金近いオヤジが渋谷系の言葉遣いしても似合わねえよ(笑)

  4. さすらい日乗 より:

    宝塚がひどいなんて言ったことはありません
    麻美れいは、宝塚時代の『ベルサイユのバラ』以前から見ています。
    宝塚以後でも、『エンジェルス・イン・アメリカ』や『夏の夜の夢』『ストーン夫人のローマの春』も見ています。それぞれについては、2007年6月、2009年3月に書いています。
    それらでは、台詞を歌ってはいなかったと思う。それは、それぞれの演出がきちんとしていたからで、『サロメ』では宮本亜門が何もしなかったので、ああなったのだと思います。