佐藤栄作首相の主席秘書官を務めていた楠田実の日記である。
楠田は、産経新聞政治部の記者だったが、請われて佐藤栄作首相の秘書官になった。
彼の在任期間は、1967年5月から72年6月で、現在まで日本の首相の最長期間の始まりである1964年は、まだ産経の記者だった。
だが、実はその頃から、彼は「S・オペレーション」という佐藤栄作が総理大臣を目指すに当たってのブレーン・グループの一員だった。
そこには彼の他、産経や共同通信等のジャーナリストからなり、その主宰は衆議院議員愛知揆一で、池田勇人首相の「所得倍増計画」の後、なにを政治的スローガンとして掲げるかを議論した。
当初は、憲法改正だったが、社会党など野党の反対が予想されると、それは取りやめ、「社会開発」にする。
そして、池田首相の前ガン症状なる不思議な理由で引退すると、自民党総裁選で次点だった佐藤に禅譲されて、佐藤は内閣総理大臣になる。
それから4年後に、今後はジャーナリズムの視点が必要ということで、大津正の後を受けて主席秘書になる。
その後の6年間の日記であり、佐藤栄作が何を考えて、やっていたかが克明に記述されている。
これを読んで分かるのは、佐藤栄作の守備範囲、人脈の広さである。
佐藤は、公式、非公式の様々な会を組織し、そこの人間と始終意見を交換している。勿論、料亭だが。
メンバーは、政財界が多いが、高坂正堯、永井陽之介、若泉敬、江藤潤等の学者、文化人もいる。
また、テレビでの『総理と語る』では、さらに幅広い人と交歓している。
俗に人事の佐藤と言われたが、それもこうした各種の人々との交流から来たものだろう。彼は、与党は勿論、社会党、共産党さらには部落解放同盟にまで人脈があったと言われている。
尤も、日本共産党の宮本顕治とのつながりは、共に東大というのだから嫌になるが。
佐藤栄作首相を、当時われわれは「反動佐藤内閣」と呼んでいたが、実態もそうではなく、本人も、そうは思っていなかったようだ。
事実、兄の岸信介が、反共のバリバリで、硬直的な政治姿勢だったのに比べるとかなり異なるようだ。
第一に、同じ国家官僚でも、佐藤栄作は、岸信介のような超エリートではない。
鉄道省でも、国鉄の地方鉄道管理局長も務めており、中央のエリート官僚の岸とは相当に違いがある。
だが、その辺が、佐藤をして、日本中の上から下までの人脈を形成させた一因だっただろうと思う。
彼の首相の後任として、官僚でもなんでもない叩き上げの男・田中角栄がついたのは、逆に佐藤栄作に田中角栄のような男をも包摂する度量があったことを示すものと言える。
内政では、最長不倒機関の首相在任を果たすなど、大きな成果を出した佐藤だが、外交では日中国交正常化に遅れを取るなど、次第に時代にすれ違って行く。
勿論、現在では密約の存在など、問題は多々あるとしても、沖縄返還を果たしたのは大したものと言うべきである。
沖縄の平和的返還など、本来は自民党ではなく、社会党がイニシアティブを持つべきものだったはずで、これを自民党の佐藤栄作にされたことで、社会党は存在意義を失ったとも言える。
首相の後継については、佐藤は勿論福田赳夫にしたかったが、それはできなかった。
保利茂は、「竹下登を官房長官にしたのが間違いだった」と言っていたそうだが、佐藤栄作から田中角栄へは、今日考えれば歴史的必然だったと思う。