『つかこうへいの70年代』

5月14日、早稲田大学大隈講堂で、「つかこうへいの70年代」というトーク・イベントが行われ、元朝日新聞の扇田昭彦の司会で、風間杜夫、平田満、根岸季衣の座談会があり、大変面白かった。

1974年の年末、『熱海殺人事件』でつかこうへいが岸田戯曲賞を取り、それを『新劇』で読んだとき私は大変な衝撃を受けた。
この日本にこんな奴がいるのか、一体この男(私と同年代だが)は、どこから来たのか、というほとんど嫉妬に近い驚きだった。

それからは、VAN99ホールでの活躍、そして今や伝説となった紀伊国屋ホールでの快進撃と、あれよあれよという間に大作家になり、そして一昨年死んでしまった。
この間、つかの芝居を見ることを避けて来たのは、最初の衝撃があまりにも大きく、自分の才能のなさを見せ付けられるのが怖かったのだと思う。

そして、この日もその詳細が語られたが、つかこうへいと言えば、「口だて」の芝居の作者である。
それは、最も初期の劇団暫の時代に入った平田満の時から、すでにそうだったようだ。
それを、つかこうへいは、多分早稲田小劇場で作・演出をしていた鈴木忠志を見て始めたのだと思う。

この日、扇田から話されたが、つかは早稲田小劇場に来ていて、鈴木忠志の言葉を全部メモに取り、録音までしていたそうだ。
そして、ある日扇田は、鈴木の家に食事に呼ばれた。するとそこにつかこうへいがいたという。
そして、驚くことにその日、扇田は年下のつかにひどく怒られた。
それは、鈴木の奥さんの作った手料理を扇田があまり食べず残したからで、つかは扇田に対してひどく怒ったと言う。
「なぜ、食べ残すのですか。
他人から食事の招待を受けたらどんなにまずくても全部食べるのが人間というもので、私は3日前から絶食して来たので、とても美味しかった。食べ残した扇田さんは人の道に外れている」
いかにもつかこうへいらしい嘘のつき方、嘘の延長の仕方と、朝日新聞記者という大組織に対する、つからしい否定の仕方である。
こうしたことは、日活ロマン・ポルノ時代、風間杜夫のつかの芝居での稽古ブリを見に来た、神代辰巳に対しても発揮され、その日大久保の稽古場でつかは、ひどく荒れたそうだ。
これら総てを、当時は隠していて、その後は公言するようになった彼の在日としての屈折感に繋げるのは一面的かもしれない。
だが、風間杜夫は、当時のつかが持っていた「ひりひり」するような敏感な感じをよく憶えているし、その後パルコ等でつかの芝居をかった俳優たちには理解できないものだろうと言った。

つかの口だて芝居の方法は、実は鈴木忠志の作劇術から来たものだと私は思う。
こう書くと、「両者は全く違うので、なぜ」と思うかもしれない。
だが、鈴木が言っていることは、「演劇は役者を見せるものだ」と言うことであり、それは突き詰めれば、役者の肉体が劇を生むということである。
むしろ、それ以外の物語や思想、テーマと言った役者の外部にあるものは、それを取り込んだ時に劇になるとしても、役者の体から内発的に生まれたものではないので意味は低いということである。
多分、つかこうへいは、鈴木が役者を叩き、じっと見ている中で劇を見出し、作って行くことを見て、口だて芝居に思いついたのだろうと思う。
役者を見ていれば、そこから劇が生まれる。だから、あらかじめの脚本など必要がない。

風間は、初めてつかの芝居に出た時に、「どこでそんな芝居を覚えて来た、芝居のアカを落としてやる!」と初日に言われたそうだ。
そして、つかが放った虚言の数々、それはつねに役者の体が本質的に持っているものをえぐり出し、解放してあげるものだったので面白かったのだろうと思う。
つかが、やったことは役者が持っている内面のひずみ、屈折、マイナスの要素を見つけ、演技として外に放ってやることだった。それが口だて芝居になったので、大変な面白さとリアリティを持ったのだと思う。

1980年代に紀伊国屋ホールで、つかこうへい事務所の劇が大当した理由もよくわかる。
それは、風間、平田、柄本明、加藤健一らの屈折した内面に入り込み、そこをえぐり出すものだから、若者に大いに受けたのである。
なぜなら、普通の若者は、いつも屈折し、内面に解放されないものを抱えているものだからだ。
その意味で、21世紀になり、多くの若者の中に、そうした屈辱感がなくなっように見える今日、つかが亡くなられたのも、時代にあったものと言えるかもしれない。

その意味で、つかの口だて芝居は、大衆演劇の世界で行われる口だてとは全く意味が違うのである。
私は、むしろ映画監督溝口健二がやった演出法に近いのではないかと思う。
多くのスタッフ、キャストの証言にあるように、溝口健二は、撮影にあたって常に、まず役者に何度もリハーサルさせた上で、脚本を依田義賢らと現場で再検討した。
要は、それは役者の内部からセリフや行動が出てきているのか、という役者の中にドラマを発見する過程だったのである。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

コメント

  1. BLOG BLUES より:

    同感です
    はじめまして。たまたま通りすがり、読み出したら面白く、止まらなくなってしまいました。筆者のこうした志向、嗜好なら、つかだろう。どうして、つかが出てこないのかな?と思っていたら、本エントリにあたりました。

    つか芝居は、大学上京の年、早稲田小劇場で(まだ劇団暫の頃だった)「戦争で死ねなかったお父さんのために」を観て、なんでこんなに痛切なのか、と。いたく感激したのを今も覚えています。最近では「裏表井上ひさし協奏曲」の中で母娘ともども語っていたエピソードが、実に、らしかった。

    芝居は、とにかく観劇回数が少ないので、力説するほどの意見を持ち合わせていませんが、平田オリザ大っ嫌いは、感覚として、実によく解るつもりです。

    ここ20年くらいのマイナーな日本映画の多くは、上っ面の小津安スタイルで、あの「なにか言いた気な雰囲気」が、どうにも姑息に感じられて、実に不愉快です。淡々たる日常を淡々と描いて、なおかつ深い感動を観る者に与え得るのは、大人、小津安二郎の洞察と修練と風格あればこそ。誰もが真似られるわけがない、ということに、なぜ気づかないのか。今平も渚も、小津安は乗り越えるべき対象であって、真似る対象ではなかったはずだと、イライラしてました。

    勝手ながら、リンク貼らせていただきます。これからも、ご健筆を期待しております。

  2. 指田文夫 より:

    暫くねぇ
    やっているのは聞いていましたが、見に行きませんでした。今は大変後悔しています。

    つかこうへいは、苦手で、多分自分の才能のなさを見せ付けられるのが怖かったのだろうと思います。
    やはり若かったのだなと思いますが。
    今後もどうぞよろしくお願いいたします。

    現代企画室から『黒澤明の十字架』を出し、従来の黒澤論とは全く違う見方を出したつもりですので、ご興味があれば是非、紀伊国屋にはありますのでよろしくお願いいたします。