劇団座敷童子の『軍鶏307』は、5年前の作品の再演だそうで、かなり大掛かりな舞台美術と、よくいえば熱い、悪く言えば大げさな芝居は、良くも悪くも昔のアングラ劇を思い出させる。
それはそれで良いが、果たして今の時代と作者や演者たちにとって、このテーマが必然的なものかは、かなり疑問を感じた。
話は、戦中の昭和18年に始まり、一人息子を出征させたくない母(板垣桃子)がいて、隣組長に兵役免除を懇願するが、当然無理で息子は、戦場で死ぬ。ここで竹槍訓練が戯画的に展開される。
戦後の博多、病院をやつている良心的な医師・能島がいて、そこには娼婦や満州等からの引き上げ時に暴行された女たちが入院している。
そこでは、当時は違法だった妊娠中絶手術もやっている。
そこに、従軍看護婦だったこうろぎ桜(椎名りお)が戻って来て、病院で働く。
この雰囲気は、黒澤明の映画『静かなる決闘』の原作となった、菊田一夫の戯曲『堕胎医』に似ている。
めんどりさんと呼ばれている入院患者は、板垣桃子の戦後の姿で、息子を失ったことから精神に変調をきたしているが、彼女がアメリカ人将校を傷つけたことから、米軍に取り入っているヤクザ(外山博美、深津紀暁ら)とトラブルになる。
この劇の中心となるのは、めんどりを始め、様々に傷を負っている女たちで、その過去が鍵で、簡単に言えば、この劇は、「不幸大会」である。
テレビで、タレントの貧乏時代を自慢する番組があるが、これはそうではないが、いかにして自分は不幸な人生を送ってきたかの表現が劇の柱になっている。
格差社会と言われ、生活保護が急増しているとは言うが、今の日本はきわめて裕福な時代である。
そうした時代に、若者たちが、不幸に憧れるのは、一体何を意味しているのだろうか。
そうした不幸な時代の方が、むしろ生きることの手応えやドラマがあったのでは、と思っているのだろうか。
とんでもない間違いだと思う。
それは、やはりドラマの喪失の結果なのではないかと私は思う。
そして、精神がおかしくなっためんどりが、「しゃもさんまるなな」と言って首を曲げてウロウロするのは、まるでギャグのようで、笑い出したくなった。
題名の「しゃもさんん まるなな」とは、307は病院の番地で、307イコール最低の病院と言う地元の連中の悪口、軍鶏と言うのは、めんどりが一旦暴れだすと、竹槍代わりの物干し竿で、凶暴になるから「めんどりではなく軍鶏だ」から来ている。
言うまでもなく、この集団には、平田オリザや岡田利規などよりは、はるかに好意を感じるものだが。
劇場の外に出ると、東京スカイツリーが青く光っていた。
これが日本の現実である。
墨田パークスタジオ