宮本武蔵についての映画や劇は数多いが、この前田司郎の作・演出、劇団五反田団の劇は、多分最もいい加減で、でたらめに作られたものだろう。
何しろ、武蔵役の男は、小柄で、ヘラヘラした、吹けば飛ぶような、容貌としては山本コータローのような軽い男で、その言動も実にいい加減である。
さらに、佐々木小次郎や、田原伊織という冒頭で武蔵と決闘をしている男、武蔵を親の敵と狙う吉岡一門の末裔という中井貴一郎、さらにタロ吉という農民など、みな適当な衣装と演技である。時代劇風の所作も、台詞も、物言いもない。勿論、やれと言われてもできないだろうが。
三田村鳶魚や宇野信夫が見たら卒倒しそうな武蔵劇である。
武蔵が15年ぶりに故郷の村に戻って来ると、お通は、すでに元農民で、ひどく貧乏な旅館の息子のタロ吉と結婚していて、武蔵を相手にしない。
一体なんのために武者修行をしてきたのかと一応嘆く武蔵だが、特に深く悩む訳でもなく、劇は適当に進行する。
だが、本当に宮本武蔵なのか、佐々木小次郎は決闘することになるが、武蔵が抜いた刀は、金属ではなくベロベロのビニールのごときものであった。
これは、勿論戦いを避ける武藏の策略で、その夜、中井とその恋人の寝込みを武蔵は襲って、石で中井を撲殺して逃走する。
武蔵は言う。
「刀で斬ると血が出る」
宮本武蔵が、どんな人間だったのか、もちろんわからない。
絶対的に強かったのだから、現在のプロ野球で言えば、三冠王を三度取った落合博満のように、大変自分勝手で、非情な人間だったのかもしれず、この劇で描かれた武藏の卑怯さも、正しいいのかもしれない。
ここで強く表現されているのは、なぜ、江戸時代まで武士は、戦いを目的として生きてきたのか、という前田の疑問だと思う。
確かに、今日から考えれば、戦争がすでに個人戦闘ではなく、槍や鉄砲による集団戦に移行した戦国時代後期以後、武士の個人的力量を高め、その剣に命を賭けるのは、ほんとど時代錯誤である。
敵討ち等、ごく例外的にしか、すでに本身の戦いはありえなかった。
なぜ死を賭けてまで戦うのか、どうしてそれが武士の本文なのか。
だが、それは、私たちが戦後のヒューマニズム、生きることが一番尊いというイデオロギーの時代に生きているから思うのであった。
戦時中までは、日本でも天皇のために死ぬことが一番尊いこととされていたのである。
これは進歩なのだろうか、勿論われわれの社会の進歩である。
三鷹芸術センター星のホール