『瀬川昌久のザッツ・エンターテイメント1』

瀬川昌久の「ザッツ・エンターテイメント1」として、昭和12年に作られた日本初のミュージカル映画『舗道の囁き』、さらに戦前、戦後の日本の音楽、ダンス映画を上映し、関係者のトークのイベントが行われた。

『舗道の囁き』は、大スターだった鈴木伝明が松竹を出て作った映画で、同じく松竹にいた加賀四郎が自分のプロダクションで、ジャズ・シンガーのベティ・稲田、ダンサーの中川三郎を迎えた本格的ジャズ、ミュージカル映画である。
だが、この作品は、松竹の妨害で公開されず、戦後21年のフィルム不足時代に『東京のささやき』と改名、短縮されて公開されたこともあったそうだ。


この鈴木伝明の動きの裏には、後にキネマ旬報の社長になる上森小鉄も暗躍していたようだ。
加賀四郎は、新興キネマに入り、後には大映の企画部長になったと、この日のトークの息子加賀祥夫氏から語られた。因みに娘は、加賀まり子である。

『舗道の囁き』は、もうすでにないと思われていたが、1990年代にカルフォルニアのUCLAで発見された。
瀬川さんのお話では、西海岸の日本人向けの作品として輸入されたものだろうとのこと。
このフィルムは修復されて、その後フィルム・センターで2回上映された。
今回改めて見て驚くのは、録音が非常に良いことと音楽的センスが良いことである。
同時期の松竹の録音がひどいので、「どこで撮影、録音されたのか」、終了後に加賀氏に聞くと、新興キネマの東京撮影所、現在の東映東京、とのことだった。

トークで聞き驚いたのは、中川弘子さんから、戦後中川三郎が選挙に出て失敗したことだったが、そんなこともあったのだろうか。

最後の瀬川さんの紹介・解説によるミュージカル、ダンス映画の紹介では、1950年の『青春デカメロン』での中川弘子のタップ・ダンスだった。
当時、当時14歳だが、これがすごい。今で言えば、浅田真央クラスのすごさであると言えば分るだろうか。
阿佐ヶ谷ラピュタ

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