市川海老蔵の妻が亡くなったことで、大騒わぎである。
「病妻もの」が大人気となったのは、言うまでもなく徳富蘆花の小説『不如帰』だろう。
江戸時代では、都市や農村でも、意外にも離婚や死別は多く、夫婦が一生を共にすることは、そう多くなかったので、歌舞伎に「病妻もの」はない。
明治になり、初めて夫婦で一生を過ごす人生が普通とする時代が始まったのであり、これはやはり西欧的、キリスト教的思想の影響の結果だろう。
『不如帰』は、芝居や映画にもなり大人気で、映画ではサイレント時代には15回も映画化されているが、トーキーになってからではきわめて少ない。
結核を不治の病とすることが時代遅れに見えるようになったからだろうか。
私の母は、高等小学校しか出ていない無学な人だったが、この話が大山元帥の実話に基づいていることはよく知っていた。そのくらい有名な話だったのだろう。
この時代の不治の病は結核で、日本のみならず、オペラ『椿姫』でも、主人公は結核で急死してしまう。ただ、オペラの場合、主人公の女性歌手は太っている場合が多いので、興ざめになることが多いが。
トーキー以後の日本映画の「病妻もの」で最大のヒットは、これは夫婦ではなく、恋人以前の友人同士の話だが、吉永小百合、浜田光夫の1964年の『愛と死を見つめて』である。
これは、「渡り鳥シリーズ」の大ヒットで日活に多大な貢献をした監督斎藤武市へのご褒美映画で、斎藤の本来の抒情的文芸映画を作らせたのである。
斎藤武市は、小津安二郎のセカンド助監督を務めた人で、田中絹代が日活で『月は上りぬ』(「つきはのぼりぬ」であり、「つきがあがりぬ」では猥褻な意味になってしまうと言うのが小津と野田高梧の説明である)を撮るとき、お目付け役的な助監督として日活に移籍したのである。だから、この『月は上りぬ』は、きわめて小津安二郎的な映画になっていて笑える。
この映画は、東京オリンピックの陰で大ヒットし、当時5億円の興行収入を挙げていた。
これは、すでにカラー映画時代だったが、モノクロで撮り、脇役には宇野重吉の他、北林谷栄、ミヤコ蝶々、笠置シズ子などの地味な女優も配するなど、非常に堅実な作り方だった。
だが、皮肉にも、その『東京オリンピック』が1965年に市川崑の監督で公開されるとすぐに抜かれてしまったので、誰も憶えていないのだが。
映画『愛と死を見つめて』では、二人の交友は、お手紙だったが、今回は、ブログである。
時代は進んだというべきだが、こうもすべてが明らかにされては、ドラマにはならないだろうなと思う。
ご冥福をお祈りする。
コメント
小林麻央さんは、梨園の妻という地位よりも、家族を取ったと思います。闘病生活を綴ったブログ、その中から観えたのは、梨園から離れた一個の母親としての姿だったと思います。梨園の妻としての立場は、海老蔵の役者の後継者として、長男である勸玄君をより重んじる、という事はあると思いますが、それよりも家族で過ごす事を麻央さんが選んだのは、己の余命を悟ったからで、マスコミへの露出よりも、家族との時間を選んだのでしょう。家族との時間は非公開ですが、それを特別にブログで公開した事は、麻央さんがブログを通して、多くの人間に真実を知らせる事を自分の闘病生活の意義、と考えていたからでしょう。見事な方でしたね。
もう少し面白いことが書けないの?
無理だとは思うが。
この程度では削除するしかありませんね、いつものことですが。
そうですか。僕もあなたとはもう話したくありません。
評論などは、あなたは黒澤、小津といった巨匠に絡むのがお好きなようですが、
その本意を曲げて、語らうのはマスターベーションだと思いますよ。
とても、敵う巨匠ではないし、それに絡むのは、寄生虫のような振舞いだと思います。
もう、当ブログにも来ないでください。さようなら。
癌は、苦しむだけ苦しみお気の毒に思います。
「愛と死を見つめて」では、コンビの2人と
宇野重吉、北林谷栄しか覚えてなく
笠置シズ子 ミヤコ蝶々は、記憶が飛んでしまってます。
あの頃はギターを習う イコール 「禁じらた遊び」
だったようですね。
主題歌を歌った青山和子が
録音の途中で、感極まって泣きだしたり、
テレビや、営業でも、涙ぐむ場が多かった。
と、ヒットの頃にマスコミで取り上げられてましたが
つい最近の BSテレビの歌番組での 本人の弁で
レコード会社との契約だったし
ヒットしてから、ギャラが面白いように入り
紅白に出た後は、更にステージのギャラがウン倍にあがり
親、きょうだい全部に、家を建てて上げました。
と、あっけらかんに話していて
同席していた 同世代に活躍した男性歌手が
『金の話ばかりだ』
と渋顔で言ってました。
青山和子も、その話題をだすように言われたのかどうか
また、男性歌手のアップが
即 写ったのは、あらかじめコメントを指示されてたのかどうか
よく、解りませんが
大島さんのご両親が、鬼籍に入られてるからこそ
できた番組なのでしょうね。
出版当時、乏しいおこずかいから買い求めました。
大島さんのご両親が、印税をめぐり
男性側の納得いかない対応で、一悶着していた記事が
原作を手にしながら気になっていたものでした。
日本は言論は自由なのですから、たとえ大巨匠だろうと安部晋三首相だろうと、言いたいことがあれば、それに対して言うのは自由なはずです。私は別に絡んでいるわけではありません。作品を見て、そう思ったから本に書いただけです。
「一寸の虫にも五分の魂」という言葉を習ったことはないのでしょうか。
虫で結構です私は。
なにより個々の作品で自分はどう感じたかを正直に書いた方が意味があると思いますね、変な理屈づけをだらだらと書かずに。
さすらい日乗さん
僕が分からないと言っているのは、当ブログには律儀にコメントをしてくれることで、
それはそれで有り難いと思っているのですが、こちらへのコメントは受けない事なのですよ。
ブログに来られる事を否定されないのであれば、何が違うのか分からないのです。
コメントもブログもスタイルを変えて、別人に成りすましているわけではないので。
こんな放言が気に入らないなら、削除してもらって結構なのですが。
「愛と死を見つめて」の映画のなかで
担当の医師から 小百合に
健康保険がきくから。 だったか
きくようになった。 だったか記憶があいまいですが
「保険」の言葉が、妙にリアルで
お涙頂戴ばかりでなく生活を感じる場面でした。
私の知り合った友人(女性)で
小百合ファン が2人おりました。
タモリが早稲田の学食で
小百合の食べ残しのトーストを、慌ててかじった。
と、タモリ本人が話していたことありましたが
指田さまがいらした時期は 小百合熱の余韻はありましたか?
この映画は、テレビで当たった後に作ったので、非常に丁寧に作られており、脚本は大ベテランの八木保太郎で、リアリズムですから、多分健康保険制度もきちんと調査していたと思います。父親の笠智衆の仕事が何だったかは憶えていませんが、健康保険は保有していて、多分難病だったので、「保険適用外だったが、適用されるようになった」という台詞だったと思います。
吉永小百合は、私より1年前に入学していて、会ったと言う人もいましたが、全体としては割合冷静だったと思います。
当時、テレビの女優、モデルでハーフのムーザ・毛馬内というのもいて、こちらの方がきれいだったという人もいました。
去年、ある映画を見たら、彼女が出ていて、本当に西洋人形のようでした。彼女はすぐに財界人と結婚して引退したようです。
私は個人的には、吉永小百合を1963年の『雨の中に消えて』の時、池上駅周辺にロケに来たので、彼女を実際に見ていて、写真も撮っています。「非常に小さいな」という感じでした。
コメントを有難うございます。
ムーザ、毛馬内ですか。
名前は、浮かびませんが、
姉の持っていたモード誌で、名前の記憶あります。
杉本エマ、入江美樹、松本弘子たちと
同時期あたりに活躍されていた気がします。
娘が、中、高校の時期の父母会の仲間が
小百合宅の地域に在住していて
大根一本を買っている場などを、度々見てるそうです。
浦山監督に 自分も貧乏な境遇を話したら
山の手の貧乏は、貧乏にはいらない。
と言われたそうですが
高校進学の際に、実母から
学資は自分の稼ぎで 賄うよう言われ
大学進学も、計画たて備えたそうで
当時は、イメージ崩れるからでしょうか
内情はいっさい、語っておられなかったので知らなかったことですが
カミングアウトされてから
華やかな世界でも、ご自身は大変だったことに思いはせました。
いろいろなこと、知りたくて
指田さまのブログを訪問させて頂いてます。
大分まえのも、新鮮で、初めて知ることばかりで
ちょっとお利口さんになった?気がしています。
いつも感謝です。
名前は、浮かびませんが。を
【顔】は、すぐ浮かびませんが
に訂正させて下さい。 粗忽者で、すみません!!
吉永小百合の父親は東大出で、外務省にいましたが「ノン・キャリ」で出世は無理とのことで、戦後大学の知り合いに誘われて出版社を始めましたがすぐに失敗しました。
それで家は大変で、子役時代から彼女の稼ぎに家族は依存していたようで、貧乏話は本当です。
都立駒場高校にきちんと入学しているのですから大したものです。
そして、大検に合格して早稲田に入ったのですから本物で、なんとか入学で入った広末涼子などとはレベルが違います。
『伊豆の踊子』で、踊子の吉永は大学生の高橋英樹に字を教えてもらうのですが、西河監督は、「誤字を指摘されるのでは・・・」と思ったそうで、この役はミスキャストでしたね。
無智な少女の『潮騒』も吉永小百合には無理があり、山口百恵や堀ちえみの方が適役だったと私は思っています。
後にかなり年上の岡田氏と結婚したのも、理想の父親像を求めていたとも考えられますね。
「男はつらいよ」に出演されてた時に
岡田氏との結婚について、相談したら
渥美清が後押しして決心がついたそうですね。
お姑さまがご生存中、三味線を教えてもらっていたそうで
何事にも挑戦してみる気概みたいなものを感じました。