多分見るのは3回目で、最初は封切り時で、2回目は10年くらい前で、浦山桐郎の『私が捨てた女』と2本立てだったと思う。
浦山の作品は全部見ていると思うが、この『非行少女』が一番だと思う。
やはり日活時代の方が、俳優もスタッフも豪華で良い。
話は、和泉雅子の非行少女、と言っても盗みや過失の火事騒ぎくらいで、性的な非行はまったくしていないのだが、浜田光夫の東京から故郷の金沢に戻って来て再会し、彼女を次第にたち直していくもの。
下手にすれば、ただの美談になるものを浦山は、きれいごとにせず、リアルな話にしている。
当時15歳だった和泉雅子もよく演じている。
山田五十鈴が、16歳で『浪花悲歌』を演じているのに比べれば、大したことはないとも言えるが、山田五十鈴と比較すること自体に無理がある。
彼女は、東京銀座出身のお嬢さんで、この役は嫌だったらしく、浦山も後の『青春の門』で主演で使った大竹しのぶのような不細工な女優でやりたかったようだ。
だが、和泉雅子も浜田光夫もよく演じている。
そのために浦山は、順撮りで撮影し、二人が役になって行くのを待っていたようだ。
最後の金沢駅の食堂での二人の別れのシーンだけでも見る価値がある。
二人の背景に様々な人が出入りし、動いている。今回のテレビでの和泉雅子の回想では、この撮影で1週間かかったそうだが、確かにあれだけ背景の人物も動かしていたら時間はかかったと思う。
最後、浜田光夫は列車に乗り込む和泉雅子に別れるとき、
「戦争が始まったら、すぐに迎えに行くからな」と言う。
昔見たときにも変な気がしたが、やはりおかしい。
だが、よく考えるとこの作品の作られた1963年の前年には、キューバ危機があり、原爆使用の可能性もあったから、そうした危惧もあったのか。
私は作品は全く評価しない映画だが、『私が捨てた女』での、河原崎長一郎と小林トシエが歌声喫茶でデートするシーンの撮影も大変だったらしい。
助監督だった岡田裕によれば、歌声喫茶のエキストラすべてに演技をつけたそうだ。
浦山桐郎は、クラシック狂だったが、この映画ではこまどり姉妹の曲を使って気分をよく出している。
音楽は、黛敏郎で、この作品のテーマには違和感を持っていたと思うが、抒情的な曲をつけているのはさすがである。
浦山桐郎は、神宮球場でその姿を見たことがある。
当時、日本ハム(日拓フライヤーズだったが)対阪急ブレーブス戦を見に行くと、ネット裏でウロウロしている男が浦山で、彼は熱狂的な阪急ファンだった。
彼は、仕事がなくていつも暇で、二度目の奥さんの間にできた子を連れて、一日じゅう郵便局の椅子に座って客を見ていたこともあったそうだ。
なぜなら、金がかからないからであるが、彼ほど世俗的に妥協しなかった映画監督も珍しく、それはそれで立派だとも言えるが。
チャンネルNECO
コメント
Unknown
和泉雅子の火の不始末で鶏小屋が火事になりますが、火を付けられた鶏や実際に焼け死んだと思われる数十羽の鶏には驚きました。
現在ならば動物虐待でNGでしょうね。
それから浜田光夫と和泉雅子のキスシーンがありますが、15歳の少女にもやらせたのですね。
吉永小百合とはとうとうキスシーンは無かったのに!
それだけ吉永小百合は特別な存在だったのですね。
金沢駅の食堂、プラット・ホーム、列車のデッキでの二人の別れ、これも日本映画史に残る忘れがたいラストシーンですね。
デッキ(手動ドア型)ある昔の列車は、しばしば別れのシーンでロマンチックな効果を生み出しました。
驚いたことに、この映画では和泉雅子も浜田光夫も本人が動き出した列車のデッキに飛び乗っていますね。
大変危険な撮影だと思うのですが、当時はスターにこんなことをよくやらせていたものですね。
プラットフォームでの撮影は列車の発着や到着に合わせるため、何時間も現場で待たされたと和泉雅子がどこかで書いているのを読んだことがありますが、金沢駅の食堂(セットなのでしょうか、それとも金沢駅でのロケでしょうか)での撮影に1週間もかかったとは初耳でした。
「さすらい」様はこのラストシーンについて「浜田光夫は列車に乗り込む和泉雅子に別れるとき、『戦争が始まったら、すぐに迎えに行くからな』と言う。昔見たときにも変な気がしたが、やはりおかしい」と書いておられます。
小生はこのような台詞についてはまったく記憶に残っていませんでした。
そこで、浜田光夫がこんな謎のような台詞を実際に言っているのかどうか、確認するためにビデオを見直すと、確かに浜田は「戦争が始まりそうになったら、飛んでむかえに行ってやるからな」と和泉に呼び掛けています。
さすが「さすらい」様は目ざとい、鋭い、切れる。
浜田がリリカルな別れの場面で唐突にこのように脈絡のない台詞を口にするのは、小生も不可思議でなりません。
(「さすらい」様の御説の)キューバ危機で核戦争が勃発したら、世界中どこに逃げても同じことで、迎えに行っても仕方がないはず。
また、ベトナム戦争のことだったとしても、当時の日本は高度成長期に突入、日本人の大半は遠く海を離れたベトナムの戦争などは忘れ、平和を享受していた時期で戦争の臭いなど微塵も感じられなかった。
森山啓の原作「三郎と若枝」は1942年(この時期ならこの台詞はぴったり当てはまるのですが)に執筆されています。
そこで、まさか、まさか、まさか、そんなことは絶対にないと思いますが、脚本家が無意識のうちに小説の台詞をそのまま使用したのではないでしょうか。
それならば、浦山桐郎とあろう完全主義者が重大なミスを犯しています。
原作でこの台詞をチェックしたいのですが、勿論のこと、当地の図書館などに所蔵されているはずがありません。国会図書館なら見つかるかも知れませんが。
浦山桐郎でよかったのはこの作品と『キューポラのある街』の2本だけ、「さすらい」様がおっしゃるように『私が捨てた女』は退屈で詰まらなかったですね。
追伸:
筑波久子を「トランジスター・グラマー」と書きましたが、これは小生の勘違い。
彼女の正確な身長を割り出すことはできませんでしたが、岡田真澄(184cm)と並んでいる写真を見ると筑波はかなり背の高い女性でした。
訂正しておきます。
「戦争云々」は、前にどこかのサイトで「なんのことだ?」とあり、これはキューバ危機のことだと書き込みました。
原作にあったかどうかは知りませんが、当時脚本の石堂淑朗も左派的立場だったので、キューバ危機を入れたのだろうと思います。石堂は晩年は保守派になりますが。
浦山は、いわゆるロリコン監督で、吉永小百合、和泉雅子、大竹しのぶと良い作品は全部少女が主演ですね。中では『キューポラのある町』と『非行少女』が最高でしょうね。
国立国会図書館所蔵の資料は、利用者が送料を負担すれば公立図書館あてに送ってくれるはずです。国会図書館にあるかどうかは、ネットで検索できます。
またまた、大ミスですみません。
「非行少女の」の原作「三郎と若枝」(『別冊小説新潮』1962年7月)で、1962年でした。
検索中に「(原作は)1942年」と表記していた記事があって、これをそのまま信用してしまいました。もう一度調べ直すと「1962年」でした。
これなら、やはり「さすらい」様のキューバ説が正しいと思います。
それでも、あの場面にこのような台詞を振り入れるのは、どう考えてもおかしく、納得がいきませんが。
しつこくてすみません。
浜田光夫の『戦争が始まったら、すぐに迎えに行くからな』の台詞は原作にはありませんでした。
「さすらい」様のこの記事に興味を持ち、「絶対に原作にもこの台詞はある」と信じて、原作を見つけ出し、確認することから始めました。
原作の『三郎と若枝』は『青い靴』と改題されていたために、なかなか検索できませんでしたが、国会図書館と石川県立図書館にあることが判明し、石川より取り寄せました。
原作にはこの台詞も金沢でのドラマチックな別れもなく、最終的に二人は結婚し幸せな生活を送るところで終わっています。
原作(青春小説風)と脚本とはまったく異なり、映画は石堂淑朗と浦山桐郎の優れたオリジナルと言ってよいでしょう(この見事なシナリオ、二人の筆力の凄さに驚かされます)。
原作者の森山啓も自分の小説より映画の方がよかったと後書きで述べています。
しかし、この映画は一応「日活グリーライン」の一環として製作されているので、当時の日活ファン層にこの台詞はこの場面で必要だったのか、やはり釈然としません。
「さすらい」様のこの何気ない一文からスタートし、あれこれ調査して真実(オオゲサ?)に到達したときの喜びは何事にも代え難いものでした。