幕末、神田明神の祭礼に外国人が闖入し狼藉をはたらくが、幕府は彼らを処罰できず、逆に袋叩きにした氏子佐野浅夫らを遠島にしてしまう。
この裁きに怒った旗本の三國連太郎は、攘夷を唱える河野秋武の新徴組から参加を呼びかけられる。
積極的になれないが、不正行為で蓄財をしている商人から千両箱を略取し、河野らに渡す。
彼は、どこにも行けないニヒル者で、武士のくせに酌婦上がりの女新珠三千代と結婚している変り者。
三國のところに若者安井昌二が来て、弟子入りを乞い、金座役人の屋敷にも不浄の金があると言う。
夜、屋敷に押し込むとそこには、美女の嵯峨三智子がいて、三國は一目で惚れてしまう。
実は、そこは安井の家で、嵯峨は、安井の妹であり、父親の不正蓄財に怒り、身分を偽って攘夷派に参加しようとしていたのである。
この三國が嵯峨三智子を追うことが、話を複雑にし、結局三國も捕縛されて6年間牢獄につながれる。
時代は変わり、官軍が江戸に入り、「天子様の思し召しで、お前たちも獄から出してやる」との隊長辰巳柳太郎の言葉で三國連太郎も自由の身になる。
二言目には「ご時世」を言い、「いずれ何とかするから」と言う山形勲の山岡鉄舟。
さらになんとしてもひとこと文句を言ってみたいと伊達信の老中小笠原図書守のところに行くと落魄し、一人で離れにいる。
「誰も旗本には戦おうとする人間がいなかったのだな」と言って彼は官軍に引かれていく。
新珠と二人で知行地の武蔵野で過ごそうと一度は決心するが、その夜新珠が戻ると、三國はいない。
幕府の残党の彰義隊が上野に立てこもって戦っているのに三國は加わったのである。
深夜、三國を探し、森で倒れているのを見つけた新珠三千代。
この辺の森を彷徨するところは、後のこの二人の映画『人間の条件』を思い出させる。
最後、三國は江戸の町を見下ろしながら死んでゆく。
菊島隆三脚本、滝沢英輔監督のこの映画は、いろいろなことを思わせる。
一つは、この外人の跳梁跋扈は、1950年代のアメリカ占領のことだとも言えるだろう。
滝沢英輔は、山中貞雄、三村伸太郎、稲垣浩らと共に梶原金八の鳴滝組の一人であり、戦前の日活、東宝を通じ、時代劇の中堅監督だった。
また、順撮りの滝沢と言って有名で、この作品も、多分中抜き等をせず、順番に撮ったのだろう。
彼は、東宝で三好十郎原作で『戦国群盗伝』を監督しているように左翼的な人だったが、戦後は同じく三好十郎の『斬られの仙太』を映画化している。
『斬られの仙太』は、天狗党に参加した農民仙太の目を通し、戦前の共産党の誤りを描いた劇であり、滝沢は権力に対しニヒルな立場だろうとも言える。
「帝力なんぞ我にあらんや」という東洋的諦観かもしれない。
助監督が神代辰巳で、滝沢英輔には、蔵原惟繕も付いており、二人が監督として優れた作品を作ったのには、滝沢から得たものがあったと思う。
翌1956年5月に、石原慎太郎原作の『太陽の季節』が封切られ、日活は、時代劇と文芸物という戦前の日活から、アクションと青春映画の会社になる。
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