「黒澤明も大変だったんだな」 黒澤明と井手雅人

『映画論叢・45号』に、根本順善が、1979年の『影武者』の脚本執筆のときのことを書いている。この人は、シナリオライターを目指して、八木保太郎の弟子になった後、新東宝の後継会社の一つの国際放映でテレビ映画の助監督、監督をした人で、劇場用映画も監督したが、特に大したものはない。

彼は、井手雅人のところに出入りしていて、1970年代末に井出が、黒澤明の『影武者』の

脚本を書く手伝いをしたが、そこに描かれているのは、天皇黒澤だが、孤立していてイライラしている我儘な巨匠の滑稽な姿である。

昼間、二人は原稿を書き、井手がそれを黒澤に見せると、「こんなのだめ!」と全部削除すると言った具合。

風呂に入る時も、黒澤は勝手に出て、井手と根本が湯に浸かっていると「出ろ」と言い、自分が先に上がると「早く上がれ!」と叫ぶ。

夕食後は、薬とコーヒーを黒澤に飲ませた後、井手は汗だくで黒澤をマッサージする。

汗だくの巨匠の姿を見て、根本は驚愕する。

この時、根本は黒澤をマッサージした時、「影武者の主役は仲代達矢じゃいけないんですか」と聞くと黒澤は「あんな目をむく役者はだめだよ」と言ったという。

つまり、シナリオは勝新太郎に当てで書かれたものだったが、これは当時の東宝では、勝新太郎・若山富三郎の勝プロ作品が娯楽大作の中心だったことを示すもので、勝の『影武者』での主演は東宝の強い意向だったと想像される。

いずれにしても、東宝時代のように、我儘を言い、自分勝手に事を進める黒澤明だが、そこには何でもモノを聞く社員助監督は存在せず、身の回りの者を酷使する孤独な老人の黒澤明である。この時期、『トラ・トラ・トラ!』で監督解任され、なんとか『どですかでん』を作ったが大赤字になり、ソ連での『デルス・ウザーラ』は、今見ると結構良い映画だったが、日本での評判は低く、結局黒澤は追い詰められていた。

そこで、1970年代末に東宝に『乱』を出したが「暗すぎる」でダメになり、急遽『影武者』を作ることになり、シナリオ作りになる。この時期には、かつての橋本忍、菊島隆三、小国英雄はいなくて、井手だけが黒澤明に付き合ってくれていた。そこに見えるのは、追い詰められて周囲の者にしか当たる孤独な巨匠、世界の黒澤明である。

日本の映画監督で、会社を離れて自分のプロダクションで優れた作品を作ったのは、結局『復讐するは我にあり』の今村昌平と『少年』の大島渚しかいないのではないかと思っている。

当然だが、映画製作には多額の金と人材がかかるので、個人では難しいということだと私は思う。

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