木下恵介の喜劇『お嬢さん乾杯』は、一応名作とされている映画であるが、私はあまり好きになれない作品である。
佐野周二の自動車修理工場主と没落しつつある上流家族の長女原節子との見合いから始まる物語で、その言動や文化的差異を笑う喜劇である。
二人の文化の違いの象徴として、音楽があり、原節子はピアノを弾き、バレー公演に誘う。
踊っている貝谷八百子バレー団は、『レ・シルフィード』で、流れている音楽はショパンの『幻想即興曲』である。
この曲は、SPレコードを佐野が買ってきてバーで掛けるなど、何度か使われる。
それに対して、佐野周二が、原節子の誕生日で披露するのは、彼の故郷土佐の「よさこい節」の独唱であるが、結構上手いのだ。
また、佐野はボクシング(拳闘と言っているが)が好きで、試合を二人で見に行くなど、彼は粗野な男とされている。
だが、本来佐野周二は、知的で温厚な二枚目なので、乱暴な感じは受けず、その意味ではミス・キャストのように見える。
さらに、彼の子分が佐田啓二で、彼も不良少年上がりのようだが、これも適役とは思えない。
もっとも、戦後は日本映画界に男優が不足していたので、少ない役者がどのような役でも演じなければいけなかったのだが。
さて、ショパンと「よさこい節」は、文化的差異性を示すようなものだろうか。
本来、文化、芸術に上下や差別はないはずで、クラシックが上で、民謡などの民俗音楽が下ということはない。
第一、19世紀以降のクラシックは、マーラーやドビッシー、バルトークに代表されるように、何らかの形で民族的、あるいは民俗的音楽を取り込んでいる。
それは、「高校野球が神聖で、プロ野球が不純」といった昔々の議論と同じである。
戦前、戦後は、プロ野球は、職業野球と呼ばれ、スポーツではなく、見世物とされていたようだ。
つい最近知ったのだが、野球にも天皇杯は下賜されており、それは東京六大学の優勝校であり、また全国軟式野球大会の優勝者にも授与されている。
つまり天皇、すなわち国が認める野球は、アマチュア野球であり、プロ野球ではないのである。
松竹大船撮影所を代表するインテリ監督の大庭秀雄は、「木下君には、技術はあるけど、教養はない」とある雑誌で言っていた。
それは、木下には映画を面白く見せるテクニックはあるが、小学校唱歌の多用に見られるように彼には音楽的教養はない、との意味だそうだ。
そして、大庭秀雄は、大のクラシック愛好家だったらしいが、このあたりが松竹大船撮影所の「教養の限界」のように思える。
「よさこい節」を主題歌とした小林旭主演の『南国土佐を後にして』が、新生日活で大ヒットするのは、この役15年後の1959年のことである。