松本清張が自作の小説『黒地の絵』の映画化を熱望し、そのため映画製作プロダクション霧プロを作ったが、映画化はできなかった。
同プロダクションの取締役野村芳太郎が、『天城越え』や『きつね』等の製作に熱心になり、それが清張の野村への不信感となり、霧プロは解散する。
この間、同プロ解散後、霧企画で映画、テレビの企画、清張の著作権管理に当たった林悦子の本『松本清張・映像の世界』(ワイズ出版)を再読した。
1979年、『黒地の絵』の映画化のため、アメリカの黒人の脚本家ブッカー・ブラッドショウが来日し、関係者と北九州の現地をロケハンした。
この時、ブラッドショウは、「黒人だからといって、太鼓に浮かれてこのような悪事は絶対にしない」と強く主張したという。
当然のことである。
もともと、松本清張の、朝鮮戦争中に、黒人が小倉祇園太鼓の音に本能を刺激され、集団脱走し、小倉市内で集団暴行したという発想が間違いなのだ。
だが、この誤謬を日本人スタッフは誰も気づかず、シナリオを作り直すが結局、映画化はされなかった。
現在で見てみれば、この小説は映画化されなくて良かったと思う。
もし、映画化されていれば、1970年代はともかく、今日では「太鼓の音にアフリカ人の本能が刺激され反乱が起きた」は、人種差別になるからだ。
アメリカのオバマ大統領にこの映画は到底見せられないに違いない。
この本には、林と、後に松本清張記念館館長となる藤井康栄氏、さらに清張の長男で電通にいた松本陽一氏との軋轢も詳細に描かれている。
偉大な父を持った息子、そして没後に残された家庭の内情は複雑なものがあり、それはまるで松本清張の小説を読むようである。
コメント
お久しぶりです。さすらいさんのこの話を読み、
日本人はどこか荒削りな箇所があるのかな。人種に対こうも勉強不足は悲しい。
ロック世代までの日本人は
1970年代以降のロック世代までの日本人は、黒人音楽がまったく理解できていなかったと思う。
五木寛之の『さらばモスクワ愚連隊』での、脚本の田村孟も、監督の堀川弘通もジャズをほとんど理解していなかったことがわかる映画です。