昭和の産業遺物に会った

昨日見た松竹映画『魚河岸の旋風娘』の中でも、魚河岸の連中が料亭に招待で京都旅行に行く場面があった。

いわゆる団体旅行で、日本の旅行の主力は、かつてはこの団体旅行で、業界では主な支店には「だんりょなになに支店」と言うのがあった。

中高の修学旅行に始まり、会社、役所、地域、労働組合、同業組合等の団体旅行は、大きなマーケットだったが、今は随分と減少しているらしい。

その代わりに増えているのが個人旅行であり、かのHISはそれで大きくなった。

さて、退職後利用しているのは、ネット申し込み専業の某社のバスツアーで、今回は2年ぶりの1泊だった。

豊田市の香蘭渓の紅葉ツアーは、大混雑で形原温泉の旅館についたときは7時を過ぎていた。

                        

大広間の夕食では、昭和時代の団体旅行の場でよく見た昭和の産業遺物にお目にかかった。     

これをなんと言うのか知らないが、ケロシンかなにかに火を付け一人分の鍋を温めるものである。

最初に見た時、なんとも凄い発明だと感心したものである。

その大広間は、現在は洋間で椅子席だが、多分以前は畳で無礼講の大宴会が連日行われていたにちがいない。

この時、広間は私が参加したツアー客のみで、随分空いているなと思ったが、翌日の朝食時は、満員だった。

その訳は、われわれは香蘭渓の行き帰りが非常に混雑していて遅くなったためで、他に運動部の合宿らしい団体など宿泊客は沢山いたのである。

この形原温泉でも、団体旅行から個人中心の旅行にきちんと対応していたのである。

2日目の大井川鉄道から寸又峡も大変に混んでいた。

                         

大井川鉄道は勿論SLで、家山駅から千頭駅までの約40分だが、沿線はカメラマンで一杯だった。

実は、私はSLに乗るのは2回目で、小学校1年くらいのとき、父が飯能の奥にいた叔母の家に遊びに行った帰り、高麗川から八王子まで、八高線でSLに乗せてくれたのだ。

だが、このとき、SLの煙が目に入り炎症を起こし、翌週に眼科医に行くことになったので、夏休みのことで、当時は冷房はなく、窓を全開していたので、黒煙が車内に充満し、目に石炭の欠片が刺さったのである。

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