新国立劇場の『テンペスト』を見ての感想は、ただ一言、省エネの、不精芝居につきる。
なぜなら、シェークスピア劇に、マイクを使っているからである。
たかだか観客数1,000人、2週間の公演に役者がマイクを使っているとは驚いた。
昨年4月の公演『今ひとたびの修羅』でも、マイクが使われていてびっくりしたが、あれはシス・カンパニーの主催、しかも大音響のいのうえ歌舞伎である。
だが、今回は、本来台詞劇のシェークスピアである。
なんでマイクで役者の台詞を拡声しなくてはいけないのだろうか、主役プロスペローの古谷一行をはじめ、十分に地声で客席に届く声を持っている俳優達のはずなのに。
演出の白井晃と、芸術監督宮田慶子のご意見をお聞きしたいものである。
話は、シェークスピアの遺作で、ナポリ公田山涼成らの姦計により、地中海の孤島に流されたミラノ大公古谷一行と娘ミランダ高野志穂の幻想的な物語である。
演出の白井晃は、遊機械・全自動シアターの頃から見ているが、時として才気を見せびらかすようなところがあり、困ったものだと思ってきた。
フリーになったからの世田谷パブリック・シアターでの『偶然の音楽』や『三文オペラ』も到底良いとは思えなかった。
だが、2011年、新国立劇場で演出した『天守物語』は、比較的オーソドックスで、「あれっ普通にもできるのではないか」と思ったものだ。
ここでは、舞台は現在で、段ボールが無造作に積み上げられ、脇役の俳優は、物流倉庫の作業員という風にされている中で、劇は進行する。
どのような意味を持っているのかは不明だが、一応現在の日本の社会的状況を暗示しているのだろう。
物語は、古谷と高野、そして高野志穂と互いに一目ぼれで結ばれるファーデナンドの伊礼彼方と、妖精エアリアルの碓井将大、狂言回しの3人組みが中心。
古谷らを島に流した悪人のアントーニオの長谷川初範、アロンゾの田山涼成、セバスチアンの羽場裕一、ゴンザーロの山野史人らはほとんど出てこないので、ドラマが成立していない。
無理やりに幻想的にするためか、ミラーボールの使用に至っては、初台にキャバレーができたのかと思った。
残るのは、シェークスピアの華麗な台詞のはずだが、それがマイクを通しての声では、興ざめと言うしかない。
感動しようにもしようがなく、最後の古谷一行の台詞など、本来は朗々たる音声に感動するところだが、ただ白けるだけだった。
役者にはご同情申し上げる。
日本の演劇をリードすべき新国立劇場が、こんな状態では恥ずかしいというしかない。