堤真一も宮沢りえも、さらに風間杜夫も岡本健一も素晴らしい。特に風間の侠客ぶりには、惚れ惚れとした。
この尾崎士郎の『人生劇場』を原作とする、宮本研作の『今ひとたびの修羅』は、1985年3月の公演を見て、『ミュージック・マガジン』に劇評を書いている。
と書くと、随分年をとったものだと思う。この日の観客の大半は、30年前には生まれていなかった方たちなのだから。
良い芝居で、こうした古い作品を再上演することも大変な意義がある。
だが、二つの点で、大きな疑問を持った。
劇の冒頭、砂町でのヤクザの組の出入りの場面で、土手下から堤真一が現れる。
姿が見えないのに、声がきちんと聞こえる。下手スピーカーから、マイクで拾った台詞が聞こえてくるのだ。
「堤や宮沢、風間や岡本らは、マイクなしでもまったく問題なく台詞が聞こえるのに」であるが、全員がマイクを付けて演じている。
これは大変な興醒めだが、さらに観客が努めて役者の台詞を聞こうという姿勢を奪っていることが、さらに大問題なのである。
役者が、客席に背を向けていても、きちんと聞こえるのだから実に困ったものだ。
これは、テレビでやたらに笑いや字幕を入れるのと同じ発想だと私には思え、見る人へわかりやすくする「ご親切」である。
だが、これでは結果として観客がどんどんバカになるだけである。
小説の主人公の青成瓢吉(小出恵介)は、背後に退き、ヤクザ堤の飛車角と情婦宮沢りえのお豊、そして若いヤクザの岡本との三角関係が話の中心。
この二人の男、さらに風間の吉良常の意地の張り合いは、ほれぼれとするが、もちろん尾崎が書いた昭和初年にはすでに喪失されていたものである。
戦前の日本は、現在とは比較にならない程の格差社会で、基本的にはレッセ・フェールの「自由主義経済」だったのだからだ。
次第に資本の近代化と戦争へと進む時代で、すでに失われ「た義理と人情」、男同士の友情を謳ったから小説も大人気になったのだろう。
だが、いい場面だなと思うと必ず聞こえて来る大音響と音楽。
まったく、「いのうえひでのりには、センスというものがないのか」思う。
「ここで泣け」と演出家は観客に言っている、役者の芝居にではなく、音響によって。
劇団新感線のようにロック歌舞伎なら、それも良いだろう。新感線の公演は私も見ていて、それはそれで良いと思う。
だが、この劇は本質的に新派悲劇であり、大音響はなじまないのである。
最後のテーマソングには本当に呆れた。
こうして観客の芝居を見て自分で考えようという意欲を奪っているのは実に困ったものである。
新国立劇場という、日本の現代演劇をリードすべき劇場が、このような思考停止を作り出していて良いのだろうか、宮田慶子芸術監督様。
新国立劇場
コメント
Unknown
この「今ひとたびの修羅」、シス・カンパニーの主催公演で要するに貸し小屋、宮田慶子は何の関係もありませんよ。
その通りですが
書いてから貸し公演だと気がつきました。
でも、ああいうひどいのを新国立でやって良いのでしょうか。
宮田慶子にも責任はあると思いますが。
シス・カンパニーのきたむらあきこは、『KEIKO』の女優です。
同じことを思いました
私も役者さんのお芝居から感情を感じ取りたいのに、BGMによって感情を押し付られて、その演出が嫌でした。