池上に行き、父の墓参

昨日は、父の命日なので、池上に行き、本門寺にある父の墓参りをする。 私は、5人兄弟の一番下で、この日は三番目の姉は、鉄道好きの夫と一緒に開通した北陸新幹線で、旅行に行ったとのことで不参加。

その他の姉二人、長男夫婦の私の5人。 池上駅から兄の車で本門寺に向かうと階段下の広場で「市」が開かれている。 毎日曜日に朝市が行われているとのこと。 日曜日で、来週以後のお彼岸の前に済ましておこうと言うのか、本殿裏の駐車場は一杯で、奥の駐車場に置置いて納経堂裏の代々の墓に行く。

墓は二つあり、指田家代々の墓に父は入っているが、左隣に叔父の墓がある。 指田廣という叔父で、横須賀海兵団にいて、昭和18年11月25日に南太平洋のマキン・タラワの、タラワ島で戦死したのである。 ただ、戦死の公報が来たのは昭和20年のことで、父のところに「廣の写真を持って来い」と海軍から連絡があり、父が叔父の写真を持って横須賀に行った。 その後、遺骨が戻って来たが、開けるとその写真が入っているだけだったそうだ。 一兵卒など、そんなもので、遅れた帝国主義国で貧乏国の日本では、一番安い兵器が兵隊の肉体だったのだから、ひどいものである。

本門寺の庭園のレストランで食事する。 ここは、数年前に経営が代わって随分と美味しくなり、また庭にも手を入れ立派になっている。 子供の頃は、一面の竹藪で、何もなかったのだが、大変に立派になり、さらに勝海舟と西郷隆盛が会ったとの碑もあるそうだ。 本当は、ここではなく芝の薩摩屋敷だったそうだが、こういうのは熱海のお宮の松と同じで、それはそれで良いと私は思う。 食事後は、家に戻って四方山話など。

意外にも父よりも、母についての話が沢山出た。

 母は、20年前にガンで死んだが、その前の数年は、認知症的であり、当時屏風ヶ浦に住んでいた私の家に遊びに行くと電話をかけて来た。 当日になり、午後いくら待っていても来ない。 そして夕方に池上に電話すると、家にいる。

「どうしたの」と聞くと、「上大岡までは行ったが、そこから分からなくなったので、戻って来たよ」と言う。

その頃は、上大岡駅が大改修されていて、前に来た時と変わっているので、乗り換えができなかったらしい。 母は、私とは性格がまったく異なり、人の世話をすることが好きで、おせっかいと言えばおせっかい、親切と言えば大変親切な人間で、同時にかなり思威入れの激しい女性だった。

父は、1901年と昭和天皇と同い年の生まれで、青山師範学校を出て東京に教員になり、主に大田区の小学校にいた。 蒲田新宿小学校時代の教え子の一人に高峰秀子がいて、彼女の著書『私の渡世日記』には、父指田貞吉のことが過大に書かれていて恐縮してしまう。

 このブログでは、彼女のことにあまり触れなのは、そのためだが、私も彼女が日本で最高の女優であることに異論はない。

戦時中は、東京都芝区で視学をやっていて、主に学童疎開の計画と実施を担当していたようだ。 戦後は、學校に戻り、大田区の赤松小、馬込小、そして入新井第二小学校の校長の時、脳梗塞で倒れて死んでしまった。

なんと57歳で、私はまだ小6だった。
5人兄弟の内、長女はすでに結婚もし孫もいたが、次女、三女、そして大学に入ったばかりの兄と、お袋は実に大変だったと思う。 それを「後家の頑張り」で、切り抜けて生きたのだから母も、凄い馬力だったと思う

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