アサー・ミラーと言えば、テネシー・ウィリアムズとならびアメリカ現代劇の代表的作家で、日本ではウィリアムズの人気が大変高いようだが、アメリカでの評価はアーサー・ミラーの方が上である。ウィリアムズは有名な同性愛者だったので、真面目の見本のようなアーサー・ミラーの方が、その分でも得してたいようだ。そのミラーがマリリン・モンローと結婚したのは実におかしいが。
テネシー・ウィリアムズは、本質的には日本で言えば菊田一夫や北条秀司のような大衆的メロドラマ作家であり、だから日本で新派と同系の文学座の杉村春子がレパートリーとしてきたのは当然なのだ。昔、『バラの刺青』を大衆演劇出の清川虹子がやったが、これも適役だった(相手役は峰岸徹)。
ミラーの劇『橋からの眺め』の民芸公演を見る。
昨年2月、89歳で死んだミラーの追悼公演とのこと。
この劇はミラーの中でも大した劇ではないが、規模と内容が中程度なので、選んだのだろう。
本来なら『るつぼ』か、『セールスマンの死』あたりをやるべきだが、今の民芸には出来る役者がいないのだろう。
話は、ニューヨーク、ブルックリン橋下のイタリア人移民の貧困家庭。そこに妻の親戚がシシリーから来て、その若い男と娘が恋仲になり、起こる悲劇。
戯曲もだが、劇の出来も良くなく、「これなら昨日に続き川崎市民ミュージアムで関川秀雄特集を見た方が良かったかな」と思ったが、仕方がない。
関川作品は『いれずみ無残』と『新・いれずみ無残』という、松竹が時流に乗ってやけくそで作っていたヤクザ映画の1本。
松竹はヤクザ映画を作るが姑息で、大部分が松竹ではなく別会社名になっている。
これは、城戸四郎が、「ヤクザ映画を作ると文部省から勲章が貰えなくなる」と信じていたためだそうだ。バカバカしい。
荒井千津子というやたらでかい女が裸(刺青の背中だけだが)になるだけの能無し映画で、大学生時代に見て呆れたので、行く気がしなかったのだ。