なぜひどいものまで、日本映画を見るのか、またなぜ作者たちのことを考えるのか

昔から、具体的には大学時代の途中から、私はなるべく日本映画を見るようにしてきた。

その理由は簡単で、洋画の場合、いくら内容をはじめテーマなど、自分では良く理解できたと思っても、どこか完全には判っていないのではないかと思うことが多々あったからである。

その監督の、その国での全体的な評価、立場、作者としての系譜などは、十分に理解できるとは思えないからである。

日本の監督なら、どういう人で、今までどんなことをしてきて、どのような考えなのか、大抵は判り、その上で判断できる。

だから、日本映画でも、これはどうかなと思う物でも一応は見て自分で判断してみるというのが私の立場である。

だが、その結果ひどい物ばかり見ていると誤解されることもあるようだが、その理由はここにある。

対して、いわゆる洋画が、優れたものがあるのは当り前である。

なぜなら、洋画は輸入品だからである。箸にも棒にもかからぬもの、日本で受けないとされた作品はもともと輸入されないし、公開もされない。

だから、漫然と洋画を見ていれば、「洋画はなんて素晴らしいのだろう」ということになる。

だが、それは戦前の川喜多夫妻をはじめ、洋画輸入業者らによって、彼らの目によって選択された作品であり、我々の自分の目で選び取られた映画ではない。

川喜多夫妻の悪口を言うわけではないが、彼らは欧州から良質な映画を日本に紹介したが、ナチスドイツ時代には、ドイツとの合作映画『新しき土』を作り、主演の原節子をドイツに送ってナチスに迎合したことも事実である。

今日、『新しき土』を見ると、ほとんど「トンデモ映画」であり、新しき土とは、日本の傀儡政権満州国の農地のことで、その五族協和を謳う日本の国策推進映画であることは明瞭にわかる。

                                                     

さて、もう一つ、映画なんて見て面白ければそれでよく、監督や作者たちのことはどうでも良い、というご意見もある。

まあ、それも一理あるだろう。ただ、それは幼児がお菓子を食べて美味しいと言っているのと同じで、そこには何の判断も想像もない。

映画は、一応文化、芸術であり、大の大人が時には命を賭して製作しているものである。彼らの本心が何であり、どうしてそのような作品を作るに至ったかは、一応は考えてみるのが本当だと思う。

それが、作者たちへの尊敬だと私は思っているのである。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

コメント

  1. n より:

    いつも拝読してます
    映画批評には色々なご意見がありますが、いつの間にか定説が蔓延ってしまうケースが多々あります。例えば、小津監督の最高傑作は「東京物語」黒澤は「七人の侍」等々。
    指田さんの批評は定説に縛られる事なく独自な切り口を追求している点の惹かれます。これかたもお身体に気をつけて批評を続けて下さい。

  2. PEGU より:

    これ
    私への当て付けですか?

  3. PEGU より:

    Unknown
    単純に「あー、面白かった、あー、よかった」の何が悪いの?
    あなたの見方は理屈こねくり回して観てるだけじゃない。

  4. さすらい日乗 より:

    それで結構ですが
    ただ見て「面白かった」で結構ですが、『炎の人』で有名な劇作家三好十郎は、「ある作品で感動したら、なぜ自分は感動したのか、考えることが重要で始まりだ」と言っていますが、その通りだと思います。

    因みに、戦時中の映画に『戦国群盗伝』があります。
    これをF・シラーの戯曲から翻案して構成したのは当時東宝にいた三好十郎で、脚本は山中貞雄、黒澤明は、セカンド助監督でした。
    この滝澤英輔作品で「馬をもっと感動的に撮ろうと考えた」のが『七人の侍』だと黒澤明は言っています。
    まあ、良い作品は簡単にはできないということですね。