ケイヒンについて

横濱倉庫と並んで、ケイヒン、元の京浜倉庫は、横浜市といろいろな問題を起こした企業だった。勿論、以下は私の方から見た話しであり、その分一方的だろう。

京浜倉庫は、戦後横浜港で起業した倉庫会社、港運企業で今では東証にも上場されている会社である。だが、不思議なことに横浜の港湾関係の組織の役員に一切なっていない。それは、創業者の大津氏が在日だからと言われている。戦後、横浜港は新しい港湾法ができ、横浜市が港湾管理者になる前は、米軍の管理下にあった。当時、よくあったことだが米軍管理下では、日本人よりも韓国や中国人の企業が優先されたこともあったようだ。

私が、この企業の秘密を知るようになったのは、本牧A埠頭の土地を住友倉庫から買収して、首都道路公団と交換するために、その用地の由来を調べたときだった。

これは横浜港ベイブリッジを作るために、住友倉庫の用地の一部を首都高に取得させる必要から来たものだった。

その住友倉庫の用地は実は非常に複雑な経緯を辿ったものであることを知ったのである。

以下は、記憶で書いているので、どこまで真実かは自信がないのだが、昭和の初めに、この本牧に「心丸ハッチボード」という会社があった。しんまるという名称がどこから来たかは忘れたが、要は船の甲板用のハッチボードを国産の木材で作り出すことができた企業のようだった。岐阜あたりにあった会社が、横浜に来て、この会社を作り、横浜市の有力企業の出資を得て、さらに本牧に海岸線に接する場所に工場を建てたのである。そしてしばらくは普通に業務を行っていたらしいが、戦後は遊休化していたようである。

そこに目を付けたのが京浜の大津氏だった。当時すでに港湾運送事業を行っていたが、在日故の壁があると思っていたのだろう、この「心丸ハッチボード」の買収を始めたのである。詳しい経緯は忘れたが、まずシンマルの役人になり、他の株主から株を買い取り、シンマルを自分のものにしてしまった。その後、その会社を解散させ、同じ場所に新たに同名の会社を設立し、その新会社に土地を譲渡させたのである。そして、さらに京浜のものに変更したのである。まったく手品のような手法だが、当時は戦後の混乱期だったので、そのようなことができたのだと思う。

その後、本牧ふ頭の建設で、そこは三井倉庫に売買されたのだ。

まことに素晴らしい手法だと感心したものである。

だが、今から20年前くらいに、元市会議長の松村千賀雄先生に異動のご挨拶に行ったとき、このケイヒンの話になった。

先生の父親の松村先生も、心丸ハッチボードの大株主だったそうだが、戦後大津氏に頼まれて二束三文で株を売却したのだそうだ。

「まったく騙されたようなものだが、ああいう人(在日系)がいい目を見る時代はもう終わったね」

知ってる人はやはり知っているものだと思った。

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