『白蟻の巣』が描いてたはずの二つのこと

新国立劇の谷賢一演出の『白蟻の巣』は、そう悪い出来ではなかったが、私は二つのことが欠けていたと思う。

一つは、ブラジルの大農園主の刈谷夫妻と、使用人の執事、運転手夫妻との間にあるはずの階級的格差である。

この刈谷夫妻のモデルになったのは、戦後すぐの首相になった東久邇稔彦の4男の俊彦氏で、彼はブラジルのコーヒー園経営で成功した多良間氏の養子になった多良間俊彦氏だったからである。

三島由紀夫は、1955年にアメリカ、ギリシャ等の海外旅行に出た時、学習院の同窓ということで、彼らの農園のあったリンスに訪問したのである。

つまり、刈谷氏は、かつては皇族の一員であり、その使用人との間には厳然として格差があったあったはずで、劇の中では「同じテーブルで食事をされる良い方」とされているが、その裏に階級的格差がまったく見えないのは、演出としてまずのではと私は思った。

もう一つは、この劇に直接ではないが、これを発展させ、純化させた傑作小説『愛の渇き』の女性主人公の杉山悦子について、三島由紀夫がある人から、

「あんな女性がいるものか!」と言われたとき、

「悦子は男だよ」と答えたことの意味である。

『愛の渇き』の悦子、そして『白蟻の巣』の妙子が女性ではなく、男だとすればどうなるのだろうか。

劇の第二部で、主人の刈谷義郎は、妻の妙子が、運転手の百島健治と不貞行為を行っていることを知っていて、彼女は浮気性の女で、ブラジルに来る前にアメリカでも男と性交してと言う。そして、正当化するように、百島の妻啓子と結ばれてしまう。

この言ってみればダブル不倫は、少々混乱していて、その点女性主人公と使用人との抑圧された愛だけに絞られている『愛の渇き』の方が純化されていてテーマが明確である。

だが、この「悦子が男だ」と言うのは何を意味しているのだろうか。

1950年代に銀座の秘密クラブ等で男色に耽っていた三島由紀夫にとって、悦子とは誰のことなのだろうか、丸山明宏だろうか、それとも誰だろうか。

赤木圭一郎は時代が違うと思うが。

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