父について

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私は、自分個人のことについて基本的に書かないことにしているが、父については書いておきたい。

昨日3月15日は、父の命日なので、池上の実家に行き、兄姉たちと会った。

長女、次女、長男、三女で、それぞれに病も抱えているが、一応元気である。私が今月に69歳を迎えたのが一番下で、全員が70歳以上である。

父指田貞吉は、1901年、明治34年生まれで、昭和天皇と同い年である。

家は、池上通り(現在の池上通とは違う)にあったことから、本来の農業の他、親戚に勧められて瀬戸物屋もやっていた。「ちゃんばち屋」と地元の古い人は言っていたように、日常的な瀬戸物を扱っていた。だが、恐らくは日露戦争以後の不景気のためだと思うが、思ったようには売れなかったようで、家の庭には瀬戸物がたくさんあった。

その父の父、つまり祖父指田万吉は、自分の親戚の借金の保証人になった。というのは、当時はよくあったことだが、曾祖父伝次郎夫妻には子がいなかったので、遠い親戚から男と女をもらい、夫婦養子で家を継がせたのである。この瀬戸物をやるようになったのも、曾祖父に頭が上がらないのが不満で、自分でも事業をやってみたくなったからだそうだ。十分に理解できることである。

だが、その親戚の者が別の事業で借金をして返せず、祖父が借金取りから取り立てをさせられることになった。

母は、父と結婚した後、ある日家の家財道具に男たちが来て、べたべたと赤紙を貼ったので、びっりして父に聞いたら、「実は・・・」と祖父の借金のことを話してくれたという。

この時、温厚で、自分の父を尊敬してという父も、祖父に向かい

「なにもしないで、納屋で縄でもなっていろ!」と怒ったという。

父は長男で、本当は学者を目指していたらしいが、下に2人の弟、2人の妹がいたので諦め、先生になることにして、青山師範学校に行く。今の東京学芸大学である。師範学校の授業料は無料で、すぐに教員になれば給与も得られたからである。

当時、父と一緒に勉強していた親戚の若者には、後に文化功労章を受章された東大法学部教授の石井良助先生を筆頭に、大学の教授や研究者になった方がいたので、父もそれなりのレベルだったのだろうと思う。

青山師範を卒業後の1921年には大田区入新井(いりあらい)小の、1933年には蒲田新宿(しんしゅく)小学校の教師になっている。

この時、女優の高峰秀子を担任していて、彼女の著書には「指田先生は、映画撮影で忙しくてろくに勉強できない私に、絵本などを持ってきてくれ大変親切にしてくれ、私の一生の恩人だ」と書いている。

だが、母によれば、父は「俺はそんな依怙贔屓はしなかった。女性の音楽の先生が高峰を非常に気に入ってよく面倒を見ていたので、それと混同しているのだろう」と言っていたそうだ。

私も、父は嘘をつくような人間ではなく、また当時松竹蒲田撮影所には、200人くらいの子役がいて、その中の無名の子役だったので、高峰を特別扱いしなかったと思う。

だが、自分で言うのも気が引けるが、父は兄や私などの息子たちより遥かにいい男で、男優の大友柳太郎のような顔つきだった。

だから、黒澤明、松山善三と「二枚目がお好き」だった高峰秀子さんは、子供心に父のことを好いいていて、音楽の女性の先生の親切と混同されているのだろうと私は推測しているが、まあ女優らしい思い込みというべきであろう。

1943年には、父は東京都の視学になっている。視学というのは今はない制度だが、相当に強力な教育指導の「権力者」だったようだ。

主に担当したのは、学童疎開だが、この時父は二つだけ、「公私混同」を行っている。

一つは学童疎開で、次女は学校の指示通りに疎開し、最初は伊豆の古奈温泉、後は富山の砺波に行ったそうだ。だが、「同じ家から二人も疎開させることはない」として長女は家に残して、長男や三女の面倒を見させている。

もう一つは、戦況がひどくなって、1944年ごろ、一家は縁故で山形の上の山市に疎開した。

その時、母は父の命を受けて、家財道具を港区の聖心女子大の頑丈な地下倉庫に入れてもらったというのだ。キリスト教と言う敵国宗教の学校であり、監督官庁である視学の父の「権力を多分忖度」したのだろう、聖心の担当者は、喜んで家の家財を立派なコンクリートの地下倉庫に入れてくれたそうだ。

戦争体制は、国民総動員体制だったが、逆に「ヤミとコネの時代」であり、そうしないと国民生きていられなかったのであり、父もコネを使ったのだと思う。

戦後は、教育の現場に戻り、江東区平久小学校を始め、大田区赤松小、馬込小学校の校長を歴任した。馬込小の時代で憶えているのは、夏休みに馬込小のプールに泳ぎに行ったことで、私がいた池上小にはプールがなかったので行ったのだが、今なら大問題になるにちがいない。

さて、当時は日教組の最盛期であり、この対策として国は、道徳教育と勤務評定を導入し、各校では校長と組合との対立、交渉が大変な時代だった。だから、父の帰りはいつも遅く、この時期、私は父と一緒に晩御飯をとったことがほとんどない。

さて、1957年の夏休み、文部省の行う道徳教育の講習会で、講師を務めていた父は、ある日壇上で声に詰まり、壇を降りることになった。脳軟化症、今でいう脳梗塞になり、大森日赤病院に入院した。症状は、言語障害で的確に言葉がしゃべれないのだった。

8月末のある日、私が見舞いに行くと、父は私に対して「来週から兵隊に行くんだな・・・」と言ったのである。夏休みが終わり、二学期が始まることを、兵隊に行くという別の言葉でしか言えないのだったのには本当に驚き、私も泣いた。

だが、無事に父は回復し、秋には学校に行き、元のように学校に勤務するようになった。

だが、異動を申し出て、当時組合が強力だった馬込小から、穏健だった入新井第二小学校に代わった。だが、その際に父は、やはり昔の男だったので、入新井第二小の関係者には、馬込小で倒れたことは一切話さなかったとのこと。

そして、1961年3月15日の午後、校内でのPTAの会合に行く途中で、倒れた。見つかったときは、すでに階段の踊り場に倒れていたそうだから、どのよう脳の障害が起きて倒れたかは一切わからない。

私は、小学校6年で、授業は終わっていたが、卒業記念文集を作るため、午後も教室に残ってガリ版切りをやっていた。

電話があって家に戻り、すぐに学校近くの病院に行った。すでに父は高いびきで寝ているだけで、結局その夜死んだ。58歳である。

通夜、告別式、そして入新井第二小での学校葬と、相当に大きな規模で儀式が進んだ。

そして叙勲を受け、従5位訓5等だった。死亡叙勲だったので、校長としては1ランク高い叙勲だった。

58歳とは今で考えれば、信じられないほどの若い死だった。

その分というべきか、母は85歳まで生きたし、子供たちは皆健在である。

あらためて父の冥福を祈る一日だった。

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コメント

  1. 弓子 より:

    借金の保証人
    あちこちで実印を押した悲劇を耳にします。

    「視学」と言う言葉、初めてしりました。
    58歳では、本当にお若かったですね。
    お母様は、ご立派なお方です。

    高峰秀子さんは、子役の時から
    賢さでは、ひいでていたそうですが
    記憶が混同されていたこと、
    そこは、やはり子供と言えば子供だったということでしょうか

    絵本から 象の絵があれば、兎のはずないから
    この字は「ぞう」なんだ。と覚えたそうで
    何だか同情してしまいました。

    指田様のお父様が
    「そんなえこひいきはしなかった」のお言葉で
    指田様の父親像のイメージと、重なりました。

    それまでは、駅まで、見送り、絵本を???
    で、違和感があったからです。
    女性、音楽教師で納得した部分あります。

    ひばりさんが、小学校時代
    音楽の授業になると、女性教師から
    毎回「加藤さん、歌ってみて!」と指名され
    閉口した話をされてましたね。