マーチン・スコセッシの映画『沈黙』が公開され、1971年に公開された篠田正浩のDVDも入手出来て見たので、両者を比較してみる。
篠田の作品の脚本は、原作の遠藤周作も入っているので、原作者の意向を強く反映したものになっていると思われる。
原作の小説は、書簡体で具体的な行動や感情が直接的に描かれているものではなく、ドラマ化は難しかったと思うが、そこは原作者を入れ、過剰なドラマ化を排除したのだろうと思う。
これで特徴的なのは、戸浦六宏が演じる通辞を入れていることで、これは上手い工夫だと思われる。彼は頻りにキリスト教の信者たちに言う、
「ただ踏めば良いのだ、形式的なことだ」と。
スコセッシ作に、そうした表現はない。イッセー尾形が演じる井上伊勢守が、意外にも投げやりだが狡猾な知恵を持った人物として出てくるだけである。
篠田版では、岡田英治で、これは厳しい役人として表現されている。
残酷性ということでは、信者への残酷な刑罰があるが、これについてはスコセッシ版のほうがスケールが大きく、残酷性も強くなっている。
また、原作の淡々とした、非ドラマ的な描写という点では、意外にもスコセッシの方が近くて、篠田の方が原作から離れている。
その意味では、スコセッシ版は、悪く言えば「残酷刑」の羅列になっていて、それを見せることで筋を繋いでいるとも言え、やはりアメリカ映画的である。
さて、どちらも、そして原作でも描かれている一つの誤解について、私なりに考えてみたい。
それは、篠田版で戸浦六宏が頻りに言う、
「簡単なことだ、形式に過ぎず、ただ踏めば良い」の問題である。
これは、見るものがなぜキリシタンたちが踏み絵を踏まないのかという疑問だろう。
だが、近代人の我々から見れば、行為と内面は分かれているので、踏むことは簡単である。
しかし、このように外部への行為と内面が分離したのは、18世紀のJ・J・ルソー以降の近代人のことで、中世までの人間の意識と行為には、そうした分離はなく、意識と行為は一致していたのである。
だから、信者たちは、棄教しない限り、踏絵を踏むことはできなかったのであると私は思うのである。この辺は、ぜひ信仰と行動に詳しい方にコメントいただきたいと思う。
因みに、篠田版の『沈黙』は、1971年のキネマ旬報のベストテンでは、大島渚の『儀式』に次いで2位になっているように非常に評価は高かった。私もかなり良い作品だと思われる。