昨日は、雨で外に出られないので、録画してある映画を見る。
『ワイルド・バンチ』を最初に見たのは、多分川崎の映画館で、その後大塚名画などでも見た。バイオレンス・ムービーと言われているが、非常に抒情的である。
勿論、俳優のロバート・ライアンは最高である。また、敵であるウィリアム・ホールデンとの関係も非常に面白い。
やはり、見るほどに1969年製作のこの映画は、当時のベトナム戦争の比喩であることがよくわかってくる。
途中から出てくるメキシコの盗賊のような軍隊のマパッチは、南ベトナム政府であり、パンチョビラなどのメキシコの反政府軍は、南ベトナム解放戦線らの反政府軍のことだと思える。
村、アグア・ベルでのマパッチ軍の連中の酒池肉林の乱暴は、当時のベトナムのサイゴンのアメリカ軍に見えてくる。
最後の砦での大殺戮と、それをじっとやり過ごして次のところに去っていくロバート・ライアンの表情の素晴らしさ。
音楽も撮影も言うまでもなく素晴らしい。
イマジカBS
コメント
「ワイルド・バンチ」私の大好きな映画です。
この映画、主人公はウィリアム・ホールデンの強盗団の首領ではないでしょうか。ロバート・ライアンの賞金稼ぎはむしろ敵と私はみました。
この映画、ベトナム戦争の比喩ではなく、滅びゆく荒々しい「西部」への挽歌をペキンパーは描きたかったのではないかと私は考えます。
ラストの大銃撃戦、「死の舞踏」とも形容されるシーンは「西部劇」の最後の花のような気がします。
http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/e/0660894d3df664349bb3b7d2a10adce3
主人公がウィリアム・ホールデンなのは、役者の格から言って当然のことです。しかし、それは作品の表面のことであり、回想で語られるロバート・ライアンとの二人の関係など、映画の本当の意味はロバート・ライアンの心情で表現されており、ホールデンの心情はあまり見えてきません。
「西部劇への挽歌」といった一般論ではなく、作品の底にある時代的な意味をこそ感じ取るべきだと思うのです。
なぜなら、映画は大衆文化であり、いつもどこの国でも時代の産物だからです。
映画は「大衆文化」だからこそ一般論で語られるべきではないですか。
一般=大衆ではないでしょうか。
私はホールディン演じる、初老のならず者パイクの心情は痛いほど判りました。
若いころさんざんワルやったけど、もうすっかりトシとった。平安な暮らしがしたいが、いまさらそれもできない。で、パイクは死に場所を求めていたのでしょう。
ライアンのソーントンはパイクとは心情的に友情のようなものを感じていたのでしょう。
パイクの死を知って、ソーントンは「先に逝かれてしまった」と寂寥感を感じていたのでしょう。最後のライアンの表情から、そう読み取れました。
誤解のないように申し上げますが、これはあくまで私雫石鉄也のこの映画の見方であって、同じ映画でもとりようは人さまざまです。ですので、私は決してさすらい日乗さんのご意見に異を唱えているわけではありません。
さすらい日乗さんの見方もありだと思います。