加藤泰は、大好きな監督の一人で、ほとんどの作品を見ているが、なかなか見られなかったもの。
映画としては評価のしようがなく、さらにもともと舞台で上演されていた音楽には強い違和感を感じた。
映画としては、監督の加藤泰と、製作の田耕(でん たがやす)との間に大きな意見の違いがあり、さらに全体として、当初田耕が、国内の公開は考えていなくて、海外の劇場での上映を意図していたので、多分にエキゾチック趣味になっていて、ここには大きな違和をいだいた。
30年前に、イギリスに行き、UKウォーマッドの連中と話した時、彼らは「鼓動」について、
「オーバー・コンセントレーション」と的確な批評をした。
そのことを帰ってから木幡和枝さんに話すと、「西欧の文化は、基本的に神からの解放が根底にあるので、コンセントレーションは嫌うのだ」とのお答えだった。
1979年から、佐渡での鬼太鼓座の若者連中の取材が始まる。マラソン、練習、そして集団生活、加藤はそこに青春の輝きを見ている。
だがもともと舞台で行われる演目の再現となると、「ええっ」と思ってしまう。
「お七」は、団員の女性によって演じられるが、三味線は義太夫ではなく、津軽じょんがら、そして最後大きな梯子段を上って打つのは、八百屋お七の鐘ではなく、太鼓である。
これは加藤泰の批評なのかと思ったが、そうではないようだ。
褌姿で叩かれる大太鼓、佐渡おけさの群舞など、そのセンスは、かつての日共民青のうたごえ運動そのものである。代表の田耕氏は、わらび座にいたとのことなので、さもありなんと思う。
こうした民族文化・芸能の再現は、1950年代から日本共産党をはじめ音楽学者、現代音楽の作者たちによって進められてきたものだが、私は嫌いである。
理由は、簡単で、こうした祭祀等の民族芸能は、本質的に普通の民衆の生活とは無縁で、祭りの時にしかやられないもので、いわば死んだ芸能であるからだ。ここでも現代音楽の作曲家石井真木の「モノクローム」が演奏されるが、当然にも一番に曲として出来の良いのはこれである。私は現代音楽祭での石井の演奏を見たことがあるが、巨体を袈裟に包み、声明をうなるという奇妙なもので、「現代音楽なんてくだらないな」と思ったものだ。
言うまでもなく生きている芸能は、大衆芸能たる歌謡曲やポピュラー音楽等であり、そこからしか新たな民俗文化も生まれないと思う。
加藤泰にそれを求めるのは無理だが、それが明らかになっているのは、冒頭の佐渡での、鬼太鼓座と宇崎竜童とのライブで、今見ると「この程度のものだったの」としか思えない。
ともかく、監督加藤泰としては、きわめて不本意な遺作となってしまったと思う。
すべての演目で、やはり林英哲が主人公になっている。
シネマ・ジャック