佐村河内守なる全聾の作曲家の曲が、実はすべて別の作曲家の手になるもので、全聾というのも違うということが大騒ぎになっている。
名前は、見たことがあったが、曲は聞いたことがなかったので、you tubeで聞いてみると、随分大げさな曲だなと思う。
ストラビンスキー『火の鳥』やドビッシーの『ファンファーレ』,マーラーなどによく似た調べが繰りかされ、次第に盛り上げられる。
それも、「全聾の作曲家」が、ベートーヴェンのように、あたかもその苦しみの中から絞り出したような曲想である。
結構、イメージどおりの役を演じさせられる曲を作っていた上では、このゴースト・ライターの新垣隆という人はかなりの腕前だろう。
しかし、このCDが10万枚以上売れたと聞くと、「いったい日本のクラシック・ファンは何をきいていたの? 」と言いたくなる。
もちろん、10万枚以上売れたということは、通常のクラシック・ファン以外にも売れたはずで、その理由が佐村河内守氏の全聾物語であることは間違いない。
昔、音楽評論家の中村とうようさんが、次のような話を書いていた。
彼は、1950年代からブルースなどアメリカの黒人音楽を日本に積極的に紹介していたが、ある時大阪労音が、黒人の歌手オデッタらを招き、中村とうようさんは、司会役で全国各地を廻った。
1960年代中頃のことで、都会はともかく地方に行くと、ジャズ、ブルース、ゴスペル等に知識のない観客のために、冒頭の司会でとうようさんは、アメリカの黒人の歴史、特に抑圧されてきたことを語った。
すると観客は大変感動する。
次の場所では、もっと悲惨な話な黒人たちの話をすると、お客さんはもっと感動する。
その時、とうようさんは、「いったいお客さんは音楽に感動しているのか、それとも俺の話に感動しているのか」わからなくなったそうだ。
同様のことは、常々演出家の鈴木忠志も言っている。
1960年代までの日本の演劇、新劇は、テーマ主義で、一つの劇の向こうにある主題に対して観客を感動させ、あるメッセージを伝えようとようとするものだった。
だから、そこでは重要なのは、作品のテーマであって、個々の役者の演技の質や意味などは問題にされなかった。
それで演劇を見た、感動したと言えるのだろうか。
演劇は、演劇のみ、鈴木流に言えば、役者の演技によってのみ評価されるべきで、我が国の歌舞伎は、そのような「役者を見せる演劇」だったからこそ数百年間存続してきたと。
私は、鈴木忠志のような狭量な人間ではないので、芸術、文化は、それを享受する者は、どこに感動しても享受者の自由だと思っている。
メッセージや悲劇物語、感動秘話に感動しても享受者の勝手というものである。
だが、「AKB48に騒いでいる連中なんて、ルックスだけで音楽性を聞いていないではないか」とアイドル・ファンを馬鹿にしていたクラシック・ファンも、所詮は大して変わりはないことがよくわかったのは、勿論良いことである。
コメント
Unknown
クラシックファンが全員この人を評価していたような書き方はやめていただけませんかね。稚拙な作品であることに気づいていたファン、そもそも関心を持つことすらなかった者もたくさんいるのですよ(私もその一人)。
you tubeで聞いただけですが
私も勿論聞いたことがありませんでした。
ただyou tubeで聞いたところでは、拙劣とは思えませんでしたし、先日千住明もテレビで「かなり上手な人」とコメントしていました。
ただ、私の印象ではあまり精神性は感じられませんでした。
中村とうようさんが言うように、何を聞いているのかは、クラシックのみならず、ジャズやロックでも同じだと思いますが。
日本人は、オリンピックの報道も同じですが、お涙頂戴の物語が好きなのです。