幸か不幸か、私は同じ横浜市総務局にいたが、かの有名な南学氏とは、1回しか仕事をしたことがない。それは、1991年7月の国連ピースメッセンジャー都市会議で、私は3月末まで語学研修で富士宮に行かされていた。そこで担当したのは、ごく軽い仕事で、「ゲストとしてくる国連事務次長のサフロンチヤク氏をアテンドせよ」というものだった。後に、市会事務局長となる橋本好文係長と一緒に担当したが、南からは、
「サフロンチャクは会議の前日には来る」ということしか決まっていないとのことだった。
要は、彼の仕事の仕方は、きわめて中途半端で最後まできちんとしていないのである。国連に連絡しても無理なので、各航空会社に電話して、搭乗客にサフロンチャクがいないか確かめると、前日午後に成田に来ることが分かった。
成田から横浜に連れてきて、会議に参加させた週末に、京都に行くことになった。
この時おかしかったのは、朝ホテルの部屋に迎えに行くと、彼は「ジャパン・タイムス」を読んでいたことだった。国連事務次長というと、普通国連から日々連絡や情報が入ってやり取りをしている姿を想像するが、そんなことは全くなく、「国連なんて適当な組織なんだな」と思ったものだ。
橋本君と3人で行き、JTBに頼んで英語のできるガイド(中年の女性)で一日京都市内を案内し、夜はホテルで上等のステーキを食べさせた。
大変にご満足したようで、帰りの新幹線は上機嫌で、自分はソ連の外交官であること、ロシアのキャビアは最高なこと、また今ソ連は大混乱だが、いずれ必ず回復することを自慢していた。
ともかく、南学氏は、このようにすべての仕事を全部きちんとすることせず、適当なところで終わってしまい、後は他人に任せて野となれ、山となれというものだったようだ。これは、要は彼の性格に深く関係していることだと私は思っている。