先日の『黒塚家の娘』は予期以上のできだったが、この幻想奇譚とサブタイトルされた『白蛇伝』は、作・演出、出演者も誰も知らず、アドレスにメールで来ただけだったが、物好きなので行くことにする。
多分、ひどいだろうと思って行くと、やはり大変にイライラさせられるできだった。
1950年代末、日本映画界では2本の『白蛇伝』がなぜか作られた。
東映の長編アニメーションの嚆矢の『白蛇伝』と、東宝とショーブラザースの合作で監督豊田四郎の『白夫人の妖恋』で、これは中国、アジアへのセールスを目的として山口淑子が主人公の白蛇になり、カラーの大作だった。
この時、豊田四郎は、主人公の相手となる許仙がなぜ、白蛇と恋するのか、非常に悩み、中国文学者などに聞き、結局許仙は、貧乏なのでそこからの脱出をモチーフとして納得したとのことだ。
ただ、映画の許仙役は、豊田監督お気に入りの池部良で、貧乏には到底見えなかったのだが。因みに、豊田四郎は、女優いびりで有名だったが、肉体的にはともかく、精神的には完全なバイセクシュアルで、特に池部良は大のお気に入りだったそうだ。
さて、この劇では、男性主人公の許仙は特に貧乏とはされていないのは、時代の性だろう。
ともかく一番イライラさせられたのは、白蛇のなり替わりの白娘と巨仙は、二回主題歌を歌う。これが大変なド下手なのだが、この二人の歌のシーンが一番盛り上がるべきシーンなのに、どちらも「正面を切らない」で、互いを見つめあいつつ歌うことである。
あまりに下手なので遠慮したのかもしれないが、下手でも堂々と歌うのが芝居というものである。
勿論、二人が対話しているのに、客席に向かって正面を切って演技するのはおかしい。だが、歌舞伎から商業演劇に至るまで、こうした場面では堂々と客席に向かって歌い、踊り、台詞を言うものなのである。
それが演出というものである。
役者がそれを恥ずかしがって演技したら、見ている方が気恥ずかしいくなって完全に白けてしまう。
もし、この劇を長谷川一夫が見たら、あまりのことに卒倒してしまうに違いない。
長谷川が「東宝歌舞伎」をやっている頃、演劇評論家の渡辺保さんは、東宝演劇部課長の渡辺邦夫として長谷川に接していたが、長谷川は脚本と演出に非常にうるさかったそうだ。
「これでは幕が切れませんな・・・」というのが口癖で、芝居の最後に幕が下りるときは、「すべての枷が解き放たれるもので、その時やっと幕が下りるもの」と言ったそうだが、至言である。
豊田四郎の映画では、山口が実は蛇であることが暴かれるが、二人は悲劇的に結ばれて天井に向かって宙づりにされて昇天してゆく。その時、大蛇の妖力で、地上には大洪水が起き、円谷特撮ですべての町や村が押し流されてしまう。
今回の劇では、白蛇は、普通の人間になり、許仙と普通の幸福を目指すことになる。これでは悲劇的なラストにはならない。
それは作者の考えで自由だが、ラストとしては全く劇的にならなかった。
宙釣りが無理だとすれば、ブライアン・デ・パルマの傑作映画『キャリー』のように、二人が幸福に抱き合うと、前幕までに退治したはずの突然悪魔たちが現れて、見る者を一瞬ギョッとさせ、すぐに消させて、嘘だと見せて、大笑いと言った手があったのではないかと思った。
これでも客は来るのだ、というかもしれないが、子供だましは何時までも通用するものではないと私は思う。
多くの人間を短い期間騙すことはでき、少数の人間を長期に欺くこともできる。だが、多くの人間を長期に渡って騙すことはできないのだから。
紀伊国屋サザン・シアター