先日、「映画の中の横浜」をするために、多くの映画をコピーしていて気づいたのは、山下ふ頭を舞台とする作品が多いことだった。
鈴木清順の『東京流れ者』のタイトルがそうで、日活の1960年代前半は、山下ふ頭で撮影された作品が多い。
横浜港と言えば、その代名詞となる新港ふ頭の赤レンガ倉庫は、『カサブランカ』のリメイクである『夜霧よ今夜も有難う』に代表されるように、1960年代後半から頻繁に出てくるようになる。
『拳銃は俺のパスポート』のように、新興ふ頭と大さん橋の間の船溜まりもよく出てくるが、同時に新山下の貯木場の前面の船溜まりも、多くの艀が係留されていたので、バックに使う映画も多い。
要は、山下ふ頭、大さん橋、新港ふ頭などが、映画に出てくるのは1960年代が非常に多く、コンテナ時代の1970年代になると、港のシーンは、横浜映画から少なくなるのである。
理由は簡単で、港湾の荷役作業は、大さん橋や山下ふ頭など横浜の中心部から、本牧ふ頭や大黒ふ頭などの横浜の中心部から遠く離れたエリアで行われるようになるからである。
唯一の例外が、藤田敏八監督の東宝映画『赤い鳥逃げた?』で、このラストシーンでは、本牧コンテナ・バースのコンテナの間をぬって原田芳雄・大門正明・桃井かおりの乗った車が、パトカーとカーチェイスを繰り広げる。
そして、少年課の刑事で、不審者の大門を発見し尋問したために、結局追走する警官の銃で殺される殿山泰司を始め、3人の若者は爆死する。
この銃撃戦は、公開時は全く気が付かなかったが、その後、1972年に起きた連合赤軍の浅間山荘事件のことではと思うようになった。
そんな意識が、この時の藤田敏八にあったかどうかはよくわからないのだが。