語り芸の豊かさ

土曜日は、国立劇場に行き、「映像と語り芸 幻燈機が生んだ芸能」を見る。

私の先輩で、テレビの「快傑ズバット」の主演で、劇団俳小代表の斉藤真さんは、

「俺は国立のあり方には疑問を持っているので、国立には行かない」と言っておられるが、新国立劇場はともかく、国立劇場の企画事業は評価している。新国立は、小川江梨子演出の『マリアの首』など、卒倒する愚劇をやってくれているのだからひどすぎる。

最も、国立劇場の「通し狂言」には、当初は武智鉄二から批判があったことなど、もう誰も憶えていないだろう。

彼によれば、歌舞伎は徳川幕府の規制を逃れるため、全体の筋としては勧善懲悪にするなどしているが、当時通しで上演することはなかったのだから、今更通しで上演するのは反動的だというものだった。

幻灯機とは、テレビが普及するまで家庭にかなりあったもので、私の家にも小型のものがあった。もともとは、欧州のマジック・ランタンが江戸時代にオランダから入り、木製にするなどして日本的に改良され、江戸では写し絵、関西では錦影絵として小屋で上演されたもの。

この日は、錦影絵を復活上演されている大阪芸術大学の池田先生のグループの上演と実演方法の披露も行われた。

続いて、片岡一郎の明治以降の幻燈の発展の説明。明治政府は、米国から幻燈を輸入し、教育に利用しようとしたが、普及しなかった。

盛んになったのは日清戦争で、この時はまだ映画がなかったので、絵や写真による戦況の報道だった。それをスライドにして解説付きで実演する幻燈会は、大人気になる。

黒澤明の父黒澤勇の日本体育会も、日清戦争の幻燈会をやったと記録にある。

これが、映画時代となり、活動弁士付きの上映という世界で唯一の上映方法ができる。

活弁は、新しく、また大人気の職種だったので、誰もが始め、最盛期には全国で7,000人もいたという。黒澤明の兄丙午も須田貞明の名の弁士だったことも有名だろう。

そして、サイレント映画の見本として米国の『ちびっこギャング』と阪妻の1928年の阪妻プロダクションの『坂本竜馬』が上映された。

この坂本竜馬は、最初のものだったが、当時は坂本竜馬を誰も大して知らなかったとのこと。高知の若者が、高知に竜馬の銅像を作るための基金募集の一環でもあったそうだ。

夕方からは、無声映画の夕べで、澤登翠の口演で、小津安二郎監督の『大学は出たけれど』と辻吉朗監督の『沓掛時次郎』

共に、1929年、昭和4年の不況の時だった。

小津の映画は、当時の不況を描いたとして有名で、私は初めて見たが、さすがに小津で批判性は鋭く、また最後のハッピーエンドのまとめ方も上手い。

驚いたのは、辻吉朗監督、大河内伝次郎主演の『沓掛時次郎』で、沓掛時次郎は、加藤泰監督で中村錦之助主演の名作『遊侠一匹』があり、辻監督作品はどうかと思ったが、これが非常に良いのだ。

言うまでもなく、やくざの一宿一飯の仁義で六田の三蔵を斬った時次郎は、三蔵の妻おきぬと子を連れて地方を漂泊する。

この感じは、まさにプロレタリア的なのだ。さらに、最後に安宿の夫婦が、時次郎とおきぬを助けるが、これはまさに貧しい者同士の「連帯」を表現しとぃると感じられた。

辻吉朗監督は、特に思想的なものはなかったようだが、下層な者としては当然のことなのだろうと思う。

国立劇場小劇場

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする