今、話題のチェルフィチュの『3月の5日間』の録画を見ての感想は、猿芝居ならぬ「チンパンジー芝居」だった。
あるいは、昔のテレビ番組をもじれば、「生でだらだら芝居」と言うべきか。
「生だら芝居」、こんなものが面白いのだろうか。普通に考えて面白いわけがない。
意図して自然に、だらだらと若者言葉による説明とモノローグが続くが、演者(と言うべきか)が終始手足をぶらぶらと力を抜いて動かしている。
それは、まさにチンパンジーの動作だった。
彼らは、それは最先端の意匠ように思っているらしいが、むしろ完全な猿化、知的退行である。
中身は、出来損ないの、全くつまらない「トーク・ショー」であり、内容的にも意味はない。
一番の誤解は、「自然に演じることは、演技にとって究極の課題だ」と言うことを彼らは全く理解していないことだ。
花柳章太郎をはじめ、かつて新派の名優たちは、自然に演技しているように見せるため、台詞をよく憶えていないようにわざとたどたどしく言った。
能力のある俳優が、あたかも演技していないように見せるのと、全く無能力の役者がただ自然のように、気を抜いて演技することには、千里の径庭がある。
こういう芝居を評価するなど、全くの間違いである。
先日、某大新聞にも評価する批評が出ていたが、阿呆かというしか言いようがない。