日曜日の沢田幸弘監督との懇親会で、驚いたのは、監督が会場シネマノヴェチエントのすぐ近くの生まれで、西前小学校の卒業だったこと。
当時、藤棚町は、三菱重工等の労働者の町で賑わっていて、「富士館と言う映画館もあり、大映や東映の映画を見た」とのことだった。菊池仁の本でも、映画館の他、貸本屋もあったとのことで、今とは比較にならない繁華街だった。
沢田監督は、Y校を出て、家の事情から一時銀行に勤めた後、中央大学に入り、演劇をしようと劇団東童に入った。そこは児童劇団で、牟田悌三、戸塚睦夫らがいて、かつては小林旭もいたという児童劇団の老舗だった。
全国の学校等を廻り、3年目に「劇団員にするよ」と言われたが、その時もらったのが1、000円で、「これはひどい」と思い、丁度試験があったので日活に入った。
ところが、当時日活も、給料は1万円、1本手当が5,000円で、税等を引かれて、1か月13,000円くらいで、残業手当はなしだったとのこと。それは、助監督だけで、小道具等のスタッフは多額の残業料が出た。
これは、「助監督は下士官待遇だから、それで良い」とのことで、松竹大船と同じだった。その理由は、日活の監督部の最高幹部が西河克己で、彼は松竹大船から来たので、そのシステムをそのまま持ってきたのだ。
松竹の城戸四郎曰く、
「助監督には会社が映画の作り方を教えてあげているのだから、本当なら授業料を貰いたいくらいで、助監督は薄給で良い」とのことで、松竹の助監督の給料は、普通のサラリーマンから見て、2、3割安かったそうだ。
助監督の最後の時、監督作品としてバスガイドものが来たが、それは自分のものではないと拒否したとのこと。これは樋口弘美が監督した『娘の季節』ではないかと思う。樋口監督には『煙の王様』で付いたとのこと。
樋口は、2本映画を作った後、製作部に異動し会社の幹部になる。藤浦敦の本では、樋口や武田らの元監督の連中は、「経営陣としては最悪」と評されているが、私にはわからない。
当日は、私が多分最高齢で、若者が多く、監督への質問は、テレビの『太陽に吠えろ』等についてで、皆さんが個々の作品に大変に詳しいのには参った。名古屋や岐阜からも来ていて、多くの作品のポスター等を持っていて、コレクターなのだった。
『太陽に吠えろ』のタイトルバックは、沢田監督のもので、いろいろと考えたが新宿西口を石原裕次郎が歩くものにしたとのこと。テレビの連続番組のタイトルは大変に重要で、腕のある人に任せるもので、東京12チャンネルの『大江戸捜査網』も松尾昭典だった。
日活での監督の序列は、西河克己の下、斎藤武市が最上位で、舛田利雄、松尾昭典ら、石原裕次郎と小林旭作品を撮る監督が上、野口博志、野村孝、山崎徳次郎、鈴木清順など、赤木圭一郎、二谷英明、宍戸錠作品を撮る監督がいて、さらに今村昌平らの異色作を作る監督がいたとのことだった。
日活は、後発企業だったので、各社からスタッフを集め、さらに新劇やムーランルージュ等からも来たので、多彩で若いスタッフ、俳優が多くて、自由で活発な企業、特に撮影所はそうだったようだ。