パシフィコ横浜創立30周年パーティー

一昨日は、みなとみらいのパシフィコ横浜で、創立30周年を記念したパーティーがあり、OBとして招待されたので、行く。

この日夕方は、寒波襲来で風が強く、通常よりもやや人出が少ないようだったが、それでも桜木町から海までの道は、老若男女の人出はあった。ともかく、人出が多いのは良いことであり、行くといつも閑散としている横須賀市とは大きな違いである。

実は、かつて軍都横須賀の経済力は大してもので、横浜の南部、金沢区の六浦辺りは横須賀の経済圏だったと聞いたこともある。

正式な創立日は、1987年6月だが、12月頃が閑散期なのでパーティーになったと思う。

会場に行くと、昔のメンバーが来ている。約60人、横浜市をはじめ市内企業から全国規模の民間企業まで多彩な人々。

私が、創立すぐの横浜の国際会議場会社((株)横浜国際平和会議場である)に行ったとき、最初に手掛けた仕事の一つが、会社の愛称、略称を作ることだった。

所謂CI会社に委託しつつ、私が原案を考えて、候補案の一つに入れておき、会社がブラッシュアップしてきて、その結果パシフィコ横浜になったのである。この時のCI会社の担当者は、今はコンサルタントとして『コンサルタントの質問力』等を多数出されている野口吉昭氏である。

さて、当時本来の業務で会ったコンベンションの営業に行くと、会議の主催者等は、横浜市と言う一地方都市が、国際的コンベンション施設を作るという考え方そのものが理解できないと言うのが、正直な反応だった。

当時は、国際的な大規模施設を作ると言うのは国の仕事で、一地方都市が作るということが理解できなかったのである。

「本当に作るの?」という感じがいつも感じられた。

その意味で、「ともかくやります」という意思を示すために、パンフレットを作ることは、もちろんだが、模型まで作って記者会見で展示した。

広告代理店経由で作った模型は、たしか世田谷にあった小さな工場で作ってもらったもので、聞くと特撮映像も作っている工房とのことだった。

こうしたことをすると、担当の人は、やはり乗ってくるもので、会議施設の内部に、電飾を入れ、周囲を暗くすると光るようにしたのである。それは、その後施設も増えたので改修したようだが、今もパシフィコ横浜の1階に展示されているはずだ。

こうした作業はほとんど遊びみたいなものだったが、「市役所の人間として、こんなことができるなど、本当に最高だ」と幸福に思ったものである。

この頃、私の長女は1歳だったが、もう30歳を越えたのだから、パシフィコ横浜も30年を過ぎたのである。まことに年の経つのは早いものだと思う。

創立当時の役員では、高木文雄社長をはじめほとんどの方が亡くなられていて、ご健在でこの日もお見えになったのは、元日本開発銀行役員で常務取締役の長田徹さんと、元JNTOで日本の国際会議の第一人者だった佐久間健治さんのお二人だけだった。もう一人、横浜市の若竹薫さんもご健在で、出席者名簿に載っていたが、会場にはおられなかった。

さらに、創立時は総務部長で、その後社長になり、会社の資本金の減増資を実行して累積損失を一挙に解消させた岡本担さんも、この時の心労のためか、数年前に亡くなられている。

多くの方の尽力、苦労によって今日のパシフィコ横浜ができたのだと改めて思った。

鈴木隆社長はじめ、社員の方のご努力で、パシフィコ横浜のさらなるご発展をさらに期待した。

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