先日、自動車の運転免許証を返納してきた。記録を見ると、1992年7月に38歳で取得している。
私は、同時代の人たちが持つ車へのフェテイシズムは、まったくなく、また運転を必要とする生活も趣味もなかった。
私の父も運転免許は持たず生涯を終えている。父は、小学校の校長だったが、戦後は自宅の近くの馬込小や入新井第二小で、毎日歩いて通勤していたので車は必要なかった。どちらも1時間近く歩くのだから、結構遠いが、昔の人は健脚だった。
さて、私も若いころは結構歩いていたもので、大学の5年や6年目頃には、暇なので、授業は午前中に済ませて、午後は歩いていた。
高田馬場から明治通りを歩いて新宿に出て、原宿から渋谷に降りる。そこのジャズ喫茶でスポーツ新聞を読んでレコードを聴き、時間を過ごして夕方家に戻るというものだった。
何とか大学を出て横浜市に就職しても車を持つ必要はなかった。
私の趣味は、映画、演劇、音楽で、自分一人で行けばいいので、ゴルフ、釣りなどのように道具を必要とするものではないためだった。20代の終わりごろ、未婚だったので、「車の免許を取って女性を探せば・・・」と言ってくれた友人もいたが、結婚のために免許を取る気にはなれなかった。
そして、30代半ばで結婚すると、女房は結構車好きだった。
というのも、彼女の父親は企業の営業職で、車好きだったらしく、戦後はオースチンなどの珍しいのに乗り、ゴルフも趣味だった。彼女からは車を持っことを結構迫られたが、自宅マンションの駐車場も一杯だった等の理由で断わるとそれ以上のことは言わなかった、不満はあっただろうが。
さて、次女は小学校中頃から小児喘息になってしまった。小児喘息は夜中に発作が起きるもので、薬で止まらないときは、病院に行き点滴で治療してもらうのである。
当時は、バブル時代で、タクシーは呼んでも到底来ないので、近くにいた知り合いに頼んで病院に送ってもらうことが何回か続いた。
そこで、ついに運転免許を取ることとにして上大岡の自動車教習時に通ったのだが、ここでの体験は今までの中で一番不愉快な記憶の一つである。その時は、総務局国際室にいて中国上海への出張もあったので、ちようど半年かけて38歳でやっと取得した。
そして、中古のトヨタ車を買った。次女の喘息の病院や当時通っていたスイミングクラブ等への送り迎えに使った。だが、彼女はすぐに小児喘息が幸運にも治ってしまった。
金沢区福祉保健部長で呼吸器の専門家である池田先生に聞くと、「小児喘息は気道が狭いので起きるもので、体が大きくなり、気道も広くなったので治ったのだろう」とのことで典型的な症例だそうだ。
そこで、すぐに車は売ってしまったが、この間約2年だった。
更新時期のたびに一応更新はしてきたが、まったく運転はしていない。
70歳になり、通知が来たので、多少は迷ったが返上することにした。
30年近く運転していないのだから、今回の更新では実地教習もあるので、到底受からないし、費用も結構かかるとことで止めたのである。
横浜に住んで、今の生活をしていれば車は必要ではないからだ。
もし、移動の手段が必要ならば、自転車を買えばよいからである。
一つ「断捨離」して気が楽になった。