1997年に亡くなった三船敏郎についての伝記映画である。私は、日本映画史上最高の男優は阪東妻三郎だと思っているが、戦後の俳優では三船敏郎が第一だと思う。
映画の冒頭で佐藤忠男先生が、日本のチャンバラスターについて話し、「強い男はラブシーンをしないものだった」と言っている。本当は、この次に、「強い男でも女性を口説き、ラブシーンをする最初の男優が三船敏郎だった」と言ったのではないかと思うが、それはなし。
日本では歌舞伎の俳優で、立役と二枚目が明確に分かれているように、強い男と女性と色事をする役者ははっきりと区分されていていた。『忠臣蔵』の大星由良助と萱野勘平との違いであり、由良助は討ち入りへの部下の指揮を統率するが、花町でのお軽との色事は敵を欺くための偽りとさている。対して勘平は、色事専門の知恵の足りない浅はかな若者で、無意味に切腹して死んでしまう。
こうした日本の芸能に於ける役柄の分担を戦後に最初に超えたのが、三船敏郎なのである。
三船の次には、鶴田浩二が現れて、彼は特に甘いマスクで女性に絶大な人気を得る。さらに、石原裕次郎が出て、アクションとラブシーンの両方できる大スターの誕生になるが、それも三船敏郎が、戦後切り開いた道なのである。
この映画では、三船は一方的に時代劇のサムライスターとしてのみ描かれている。だが、三船はそんなに単純な男だったのだろうか。親友だった岡本喜八の最初の監督作品である『結婚のすべて』でも、三船は特出でおカマのような演出家を演じて笑いを誘っている。
以前、阿佐ヶ谷で三船の唯一の監督作品である『50万人の遺産』を見たとき、私は次のように書いた。
三船敏郎唯一の監督作品だが、「本当にこのシナリオでOKして撮影に入ったの」というできの悪い脚本。黒澤明の「良いシナリオでもひどい映画ができることがあるが、ひどいシナリオからは、良い映画は絶対にできない」という言葉の見本のような作品。多分、この程度の脚本で、撮影が行われたのは、三船の人の良さで、菊島隆三に文句が言えなかったからだろう。
菊島隆三は、本当に書いたのだろうか、それとも忙しかったので、適当に初稿を書き、そのまま撮影してしまったのだろうか。ともかく、細かいところのおかしさを上げていたら、きりのない作品。戦時中の山下奉文将軍がフィリピンに残した秘密の金貨を探しに行くと言うのだから、アクション映画と思うだろうが、これが全くアクションがなく、ひどく真面目な映画なのだ。アクション映画として必要な、リズム、テンポ、あるいは大げさなこけ脅しや、時にはオーバーな表現と言ったものは、一切なく、成瀬巳喜男の映画のように淡々と異常な話が進行する。第一、フィリピン・ロケはしたらしいが、植生などから実際に映像として使われている現場は、フィリピンではなくほとんど日本であり、宝塚など関西でのように見える。もし、この一種の「トンデモ映画」に意味があるとすれば、三船敏郎がひどく生真面目で、融通の利かない不器用な人間だと言うことが明確に分かることだろう。冒頭で、神戸の鉛筆会社の課長をやっている三船が、事務員の林美智子が、用紙に何か書き損じて捨てると、叱った三船はそれを拾って伸ばし、メモにする。これなどは、三船自身そのものである。金貨がある森林地帯には原住民イゴロットがいて、浜美枝。残留日本兵で浜美枝と結婚したのが土屋嘉雄で、この二人は黒塗りの原住民スタイル。ラストで、中村哲らの不良外人がいきなり出てきて、三船らを全滅させてしまうなど、唐突なのにも非常に驚いた。
三船の晩年はひどくて、遺作の『深い河』の演技には見て唖然としたが、長男の三船史郎の証言では、この頃はもう認知症状態で、カンペに大きく台詞を書いて見せて演じていたようだ。
彼は、1965年の『赤ひげ』の後、黒澤明から離れ、また東宝の勧めもあって三船プロダクションを作り、当時人員整理を進めていた東宝のスタッフ、キャストを大量に受け入れる。
これも「東宝での長年の仲間を首にさせたくない、彼らと一緒に仕事をしたい」という三船の真面目さの現れである。彼は非情な仕打ちのできない人情家であり、経営者としては、不向きな人間であり、きわめて職人的な人だったと私は推測する。
幸子夫人との離婚訴訟も、三船の真面目さ、不器用さの表れ以外のなにものものないと思う。
三船プロでの苦闘が、喜多川美佳への愛に行ってしまったのだと思うが、この時期『新選組』等での喜多川は、浅丘ルリ子のようで確かに美しく、可愛い。
最後は、結局幸子夫人の下に戻ったそうで、三船敏郎は本当に真面目な男だったのだなと思う。
映画の中で土屋嘉男が証言し、「テレビ映画での三船は、三船敏郎を演じていた」と言っていたが、本来の三船敏郎は、二枚目スターであり、決して「男は黙って」のような単純なアクションのみの俳優ではなかったのだと私は思う。
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