『王になろうとした男』

イギリス人が書いた、アフガニスタンを舞台にした小説が基だというので見ていなかったが、実に愚かしくひどい植民地主義的な作品。小説が書かれた19世紀末ならともかく、1975年によくもこんなアジアへの偏見と差別意識の作品が作れたものだと思う。

インドから、アフガニスタンの架空の国、カフィリスタンの王になろうと、退役軍人のショーン・コネリーとマイケル・ケインが、インド・アフガン国境を越えてカフィリスタンに行く。現地の人間を訓練して強固な軍隊を作り、他の民族との戦いに勝ち、二人は王として遇される。それは、戦闘の最中でショーン・コネリーに敵の槍が刺さったのだが死なないので、「人間ではなく神だ!」と誤解されたからだ。だが、実はシャッの下に着けていたメダルが槍先を防御していたのだ。よく分からないが、王と神は一緒らしい。

そこは、僧侶が国を支配し、なぜかポロをやっているが、ボールは子供のシャレコウベという、無知蒙昧の輩とされているが、こんな民族がいるだろうか。

また、二人は、吊り橋を架けたり、公正な裁判をしたりして住民の尊敬を得る。彼らが、王になろうとしたのは、 別に善を施そうとするためではなく、ただ彼らの持つ財宝を盗んで巨万の富を得るためだった。

だが、次第にショーン・コネリーは、財宝を取ってすぐに逃げようとするマイケル・ケインに対し、「ここにいたい・・・」というので、「あれっ?」と思う。あるいは、このアジアの地域の自然、反西欧的な生き方に共感したのかと思う。この頃、ビートルズからヒッピーに至るまで、インドやアジアへの憧憬は強かったので、これもそうかと思ったのだ。

だが、そんなことはなく、ショーン・コネリーは、「ミロのビーナスと同じだ」というロクサーヌという美女と性交したかっただけなことだ。

盛大な結婚式が行われ、二人が抱擁し、ロクサーヌがキスしてショーン・コネリーの頬を咬むと血が出る。

すると僧侶たちは言う、「血が出るのは神ではなく、人間だ!」

激怒した彼らは、二人を襲い、戦闘になる。ここはアクション映画監督らしいシーンである。

最後、インドの作家のところにマイケル・ケインが現れて、ショーン・コネリーとの話をし、彼のシャレコウベを見せて終わる。

音楽はモーリス・ジャールであり、未開の人間を訓練して戦うという点で、『アラビアのローレンス』の二番煎じを狙ったのだろうが、なんとも愚かしい映画だった。

つい最近まで、天皇を神だとしていた日本人が批判できることではないのかもしれないが。

WOWOWシネフィル

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コメント

  1. さすらい日乗 より:

    歴史的に見れば、1935年の「天皇機関説」での右翼・軍部からの攻撃以後で、天皇を本当に「現人神」にしてしまったのです。明治まで、特に関東の人間には天皇など無縁な存在で、その意味では現憲法下の「象徴天皇」は、本来の姿に戻ったとも言えますね。

    放送大学の高橋和夫先生によれば、ロレンスは、イギリスのただのスパイで、大した役割を果たしていないというのが、アラブ側の評価だとしていますが、私もそうだと思います。その意味ではヘルツ・ウォーク監督の『アラビアの女王』の方が正確だと思いました。
    映画では、トルコに捕まった後のことが描かれていませんが、あれは何でしょうね。「強姦」されたのでしょうか。