『悪人志願』は自分たちのことか

フィルム・センターは松竹110年で「松竹60・70」をやっていて、『悪人志願』を見た。主人公の炎加世子らは、この作品の監督田村孟、大島渚ら松竹大船撮影所の異分子の彼らのことのように思えた。
ともかく評判の悪い映画である。上映後の感想も皆口々に「なんだこれは、全く分からない」という。数多く映画を見てきたが、これほど「無愛想」な映画も珍しい。説明、語り口、風俗性、売りといった媚がなく、勝手に映画が進行する。

主人公津川雅彦は、地方都市のボス三島雅夫の息子で、ヤクザ風の事務所にいる。背後に外国語が流れているので、何故かと思うと、映画館なのだが、そうした説明も一切ない。総てがその調子なのだ。

横浜から砕石現場の飯場に渡辺文雄が流れてくる。
飯場の残飯を貰い養豚場に下ろしている女が炎で、彼女は津川の兄と心中し、自分だけ生き残っている。これは炎自身のスキャンダルのこと。
テーマは、炎や渡辺らが、津川らの町のボスと対立し、町から出て行くか、行かないかで、最後は炎は出て行くことになる。
要は、当時の田村や大島らヌーベル・バークの連中の、松竹大船での違和感や立場を描いたものである。
そして、この映画のとおり彼らは大船を出て行くことになる。

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