佐々木宏一郎

佐々木宏一郎の二段モーションについて書いたが、調べると近鉄では通算勝利で2位の投手だった。
近鉄の投手で佐々木と言うと、佐々木修のことを思い出す人が多いかも知れない。佐々木修は、1988年の最終戦での事件「10・19」のときにいたので、佐々木修の方が有名だと思う。

だが、佐々木宏一郎は、1962年から1981年まで、大洋、近鉄、南海にいて(ほとんど近鉄だが)、通算で132勝している。失礼だが、佐々木修はせいぜい30勝くらいだろう。
132勝は、近鉄では、あの大投手鈴木啓二の317勝に次ぐ記録なのだ。
さらに佐々木の次は武智文雄の100勝と言うのだから、いかに近鉄が弱かったかを示すものだろう。

近鉄は、パ・リーグのお荷物球団と言われ、三原脩が監督となり、当時全盛だった阪急と優勝争いをするようになるまで、優勝に全く無関係なチームだった。
だが、結局三原は優勝できず、西本幸雄が監督になって初めてパ・リーグ優勝する。
言うまでもないが、西本はすごい監督なのだ。

佐々木宏一郎は、1989年に45歳でなくなっているそうだ。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

コメント

  1. drunk-cat より:

    私のブログにコメント頂きまして
    いまだにジャズを聴くかという事ですが歳とてますますという感じです。
    ある時期「もうこんなものいらない」と放り出した玩具箱の中から、本当は好きだった物を見つけ出しては遊んでいる今日この頃です。
    たぶん時代的に知的スノッブが嫌いという姿勢を貫いてるのでしょうが、それもまたスタイルかなと思えるのです。
    面白ければ、旨ければ良いじゃないかとプチブルジョアジーの秘かな楽しみをとこれはタダノ居直り。
    指田君もちろん覚えてます、またネットで遊びましょう!

  2. 佐々木 より:

    私の叔父
    佐々木宏一郎は私の叔父です。コメントいただきありがたく思います。私の父より12歳若い弟になります。現役時代にオフで実家に帰ったときなど小学生だった私はランニングに自転車で良くついて回ったりしました。プロ野球入団時のいきさつも良く父から聞いていました。父が社会人野球をしていたこともあり、叔父が高校時代甲子園も行かずじまいで、最後の記念にと祖父と父が大洋の入団試験を受けさせたものです。1日目で随分ふるい落とされたが残ってしまい急遽3人で横浜の旅館を探して宿泊し、2日目のテストを受け、その日に球団からもう1泊して欲しいと言われましたが、仕事の休みを2日しかとってなかった祖父と父はここまでこれたら充分ですと丁重にお断りして、貧乏していましたので各駅停車で岐阜に帰りましたが、その前に先回りし大洋球団のスカウトの方が家に来ていたということでした。その時に現金で大層な入団金を置いていったという事でした。大洋では職人肌だった三原監督からすぐ解雇され、父が若い少年に訳もなく解雇では可愛そうだと球団に掛け合い、大洋から近鉄に打診され別当監督に拾ってもらった形でした。近鉄時代は、武智さんや仰木コーチには大変お世話になりました。武智さんも自分の背番号を引き継ぎ2代の完全試合を大変喜んでいらっしゃいました。面白いもので近鉄移籍し活躍しだすと追って三原監督が近鉄に来たわけです。鈴木投手入団時は独身寮で2人部屋だったはずで、通常の練習後にも鈴木投手は夜中寮を抜け出し素振りをしていた、あいつはすごいと良く話していました。叔父の登板の時は祖母は仏壇で手を合わせていたのが懐かしいです。最後は肝臓がんで京大病院で手術し、末期は家の近くの大阪の病院に移り、亡くなったときも最期を看取りました。