昭和天皇の戦争責任2

昭和天皇には戦争責任があるとして、ご退位を言った人間がある。内大臣木戸幸一と、元総理大臣の近衛文麿である。

二人が退位をすべきだと言った理由は、前回私が書いたように、軍隊の統率者としての敗北の責任で、木戸は「皇祖皇宗に申し訳が立たない」との理由だった。

天皇が責任を持つのは、神武以来の過去の歴代天皇に対してであり、国民に対しては責任はないというのだから凄い!

近衛文麿のももっとすごくて、戦争末期には、「天皇は連合艦隊の甲板に立ち、撃沈されてしまうのが一番良い」と言っていたのだから、到底正常な神経とは思えないが。

1945年に彼が出した「近衛上奏文」というものは、およそ信じがたいもので、2・26事件以後の日本は、ソ連共産党の支配下にあり、彼らの策動で日本は滅びの道を歩まされているというのが、彼の当時の日本の現状への根本認識だった。

確かに、2・26事件後陸軍の実権を握った統制派は、総力戦を戦うための国力強化には、当時のレッセフェールの経済はだめで統制的なものにすべきだと考えていた。同時に、統制官僚と言われた官僚にも、後に首相となる岸信介を典型に、ソ連の社会主義経済体制の成功を見て、「日本も社会主義的な統制を入れるべき」と考えていた。岸の孫の安倍晋三が、経営者に賃上げを要求するのも、この血の遺伝かもしれず、もし今近衛文麿が見たら、「安倍晋三は共産党だ!」というかもしれない。

それはさておき、敗戦後、木戸は昭和天皇の退位を考慮していて、その時期は米国の占領が終わって日本が独立した時だと考えていた。だが、昭和天皇は、退位されなかった。その本当の理由は分からない。日本国憲法や皇室典範等に退位の手続きがなかったからというのが、学者であり、遵法精神の強かった昭和天皇の本意ではないかと思う。

それうでないと、平安時代の鳥羽天皇は、自分の子の崇徳が嫌いだったので、自分の子、つまり孫が3歳になると彼に譲位し、崇徳が天皇になるのを阻止したといった自分勝手がまかり通り、後には保元・平治の乱の原因を作ったことを熟知していたからだろうと思う。

鳥羽天皇から、わずか3歳で譲位された天皇の名は、皮肉にも近衛天皇で、病弱故に17歳で死んでしまい、後白河天皇を生むことになる。

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